私が赤穂47士の映画を最初に見たのは、アメリカ遊学中、カリフォルニア・バークレーの映画館であった。
バークレーはカリフオルニア大学バークレー校で有名な学生街で、映画「卒業」の舞台となったところである。
この街には映画館がいくつかあり、私はここの映画館のひつつで映画「卒業」をみた。
映画館の周辺が、この映画の中の風景として登場するため、待ってましたとばかり館内のいたるところから口笛が鳴りはじめた。
そして私は同じ映画館で「赤穂浪士」を見たのである。
その当時テレビドラマ「Shogun」が大ヒットして、日本のサムライに対する関心が高まっていたのである。
「赤穂浪士」をみているアメリカ人の反応が面白かった。
討ち入りに先立ち浪士の一人が、吉良上野介家の隣家を訪れ「ただいまより討ち入りを果たす。しばらく御迷惑をおかけする。」と言った場面に笑いがおこったのである。
討ち入りなどというものは、ふつう極秘にやるもので、官憲(この場合幕府)に知られてはまずい、そんなことをわざわざ申し出ることの奇妙さと、わざわざ隣家に断るといった律儀さが笑いをさそったのであろう。
実はこの討ち入りは江戸市民がひそかにいまかいまかと期待していたものであった。
当時、元禄の時代、徳川綱吉下の柳沢吉保による幕府政治に不満をもつ人々が多く、幕府の掟を破る赤穂浪士の討ち入りは霧がはれたような痛快感を人々に与えたのである。
つまり江戸市民の支持のもとに打ち入りがおこなわれたのであり、討ち入りを隣家にわざわざことわりをいれるというのもそうした時代背景があったのである。
赤穂浪士が討ち入ったのは東京両国の吉良邸で今も保存してある。また討ち入りの後幕府より切腹を命じられた赤穂四十七士の墓は東京三田の泉岳寺にある。

 ところで私の自宅そばの福岡市南区寺塚には泉岳寺とそっくりそのままの赤穂四十七士の墓があるのである。この墓は1935年地元の篤志家がたてたものである。
赤穂の忠臣たちの行為は事件後、「義挙」とされ多くの芝居や劇となった。そして時代がくだり第二次世界大戦中、主君(天皇)に対する「忠義」が重要視された時下において「義士祭」という形で赤穂四十七士の「義挙」は全国に宣伝されたのである。
戦争中の「国民精神の作興」が叫ばれた時代にあって「忠」の象徴である赤穂浪士の精神は、時代の要求にそったものであったであろう。渋谷駅前にある「忠犬ハチ公」の話が広まっていったのも-もこうした時代の要求の延長線上にあるといって良い。
そして福岡市南区寺塚の曹洞宗・興宗禅寺、通称「穴観音」には地元有志により、実際の泉岳寺にある47士の墓そっくりのたてられたのである。吉良上野介の首洗いの井戸、大石蔵之助の血しぶきの石などまでも本物と同様にもうけられている。
そしてこの寺では討ち入りが行われた12月14日の日、地元の幼稚園の子供達が義士に扮して踊る「義士祭」が今も行われているのである。

ところでこの興宗禅寺通称「穴観音」は様々な歴史や伝説に彩られた寺である。まず穴観音という名前に示すとうり百塚とよばれる古墳群があった。三尊の像がほられた石室のひとつはいまもなお残存しこれが通称「穴」観音とよばれる所以である。さらに福岡城の抜け穴がここに通じていたという伝説もある。
 この寺は、1877年西南戦争の際には、福岡の藩士が集結し挙兵した場所でもある。
福岡城にあった鎮台を襲撃するいわゆる「福岡の乱」が失敗し、首謀者5人は斬罪となり、400人あまりが懲役刑となった。その時の死者は、穴観音すぐ近くの平尾霊園の「魂の碑」に合祀されている。
新政府に服することをよしとせず反抗した福岡藩の志士達の「忠」なる魂と赤穂の忠臣達の魂とがこの寺で出あっているのである。
穴観音は、忠魂がめぐり合う場所というべきか。