東洲斎写楽は1794年突然新しい役者絵を発表し1年たらずのうちに140種ほどの役者絵・相撲絵を残して忽然と消え去った謎の絵師である。大首絵によって俳優の個性を印象的に表現した絵は海外も含め多くの人々を魅了している。
「写楽は本当は誰だったのか」という推理が松本清張から高橋克彦、池田満寿夫にいたるまで今も興味深く論じられている。
私はかなり以前にエラリ−クイ−ンの「Yの悲劇」という推理小説を読んだことがある。犯行がすばらしく緻密に計算してある一方で、かなり稚劣な部分が見られるという奇妙な犯罪であった。
この犯人は実は少年であったのであるが、その少年は大人が書いた犯罪計画に基づいて犯行がおこなっていたのだ。
東洲斎写楽についてほんの少し得た知識の中で、私はこの「Yの悲劇」を思い出したのである。写楽の絵には「形態における印象派」といったデフォルメで人をひきつけてやまないのであるが、他方、パ−ツによってはに稚劣と思われる部分があることである。例えば手の部分がまるで幼稚といってよい作品もある。
ここから推理できる一つの可能性は写楽の浮世絵が複数によって描かれたもので、描いた人々はけして皆がみな優れた絵師とはいえないということだ。
写楽の作品発表は1794年の5月から翌年の2月までおよそ10ヶ月間、作品は百数十点にものぼる。一体一人の絵師にそんな大量生産が可能であろうか。
浮世絵(錦絵)の製作は、版元の依頼にがよってまず絵師が原付大の版下絵をつくる。これをそれぞれの絵師と息のあった彫師がうけて版木に糊ではりつけ、生乾きのところで紙をはがして墨線だけを残して、小刀、ノミで彫って墨線を彫り出す。
こうしてできた墨板は摺師に渡されて墨摺絵ができあがる。絵師は必要な色の枚数だけ一色ずつ彩色してまた彫師に渡す。彫師はこれをうけて色ごとの版をつくる。摺師はそれに合わせて一色ずつ摺りだす。紙をのせて馬連でこすって摺るのである。こうして大体、一つの板で200枚ぐらいを刷るというのである。
つまり浮世絵の制作は絵師・彫師・摺師の共同作業であるのだ。ということは写楽が活躍した時に多数の人々がその制作に有機的に関わりあったということなのだ。
もちろん東洲斎写楽という人物がそれだけの人々を動かすことができれば何の問題もないのだが、この人物は後にも先にも極めて短期間しか活動の形跡がない、つまり彗星のように現われ彗星のように消え去っているのだ。
そうした人物にこれだけ多数の人々を動かすだけの人脈をつくりうるだろうか、という疑問が残ってしまう。
そこで別の人物または複数の人々が何らかの事情で東洲斎写楽の名を語って制作を行った可能性が高い。
実は私は、本当の写楽は誰なのかについてどういう人物がその候補にあがっているのかさえ良く知らないのであるが、その可能性のある人物の一人として蔦谷重三郎の名前があがっていることを知った。
蔦谷重三郎は1750年に吉原に生まれた。
1780年から蔦谷は山東京伝、太田南畝などの黄表紙をはじめとして大量の出版活動に入る。 そして書店も江戸吉原から日本橋の通り油町に進出している。
そして通り油町から処罰までのわずか8年たらず、33歳から42歳の厄年までの8年間が彼の黄金時代といってよい。
しかし1791年山東京伝が「仕掛文庫」ほか洒落本三冊の版行によって手鎖50日の刑をうけ、蔦屋重三郎は身代半減の重い刑に処される。しかし蔦重は前をむいていた。滝沢馬琴に著作の機会を与え十返舎一九の将来に可能性をさぐるなど、次の時代を担う黄表紙作家群の養成に精力をそそいでいったのである。
そうした蔦屋の新たな挑戦が「写楽」絵制作だったわけである。身代半減の刑からの起死回生策といってよいかもしれない。
版元・蔦屋は、プロヂュ−サ−としてさして有名ではない絵師や戯作者を集め自在に操ってこうした作品をうみ出していっせいではなかったか。
しかし写楽絵が必ずしも営業上、成功したとはいえず、写楽が筆を折った翌々年には48歳で病没している。写楽が筆をおった理由は必ずしも記録にはないが、「あまりに真を描きけり」という叙述がある。東洲斎写楽がここで幕府の咎めをうけたのならば、蔦屋病没の年とつじつまが合うように思う。
要するに、「東洲斎写楽」とは蔦屋工房で働いた制作スタッフの一団を指していたという可能性が高いように思われる。

私は時々、「TUTAYA」と名がついたビデオショップを利用しているのであるが、TUTAYAの文字の下に蔦屋書店という文字をみつけた。
そしてTUTAYAと江戸時代にあったあの「蔦重」こと蔦屋重三郎との関連を予想したのである。
東京のJR恵比寿駅前のビルの中にある「TUTAYA」本社に屋号の由来をファックスでたずねた。
そしてTUTAYAの現社長・増田宗昭の祖父である「TUTAYA」創業者が江戸時代から庶民に愛された蔦屋書店の名前にあやかって名前をつけたという返事をいただいた。
周到な返事が書いてあるそのファックスの紙面を見た時、どうやらこういう質問をするのは私だけではないらしいということがわかった。
「TUTAYA・推理」は、「写楽・推理」に負けぬくらい面白かった。
なぜならどこにもあるビデオ・写真集を売る本屋の名にサムシングを感じ取った私の気持ちと「TUTAYA」創業者の気持ちがぴったりと「めぐり合った」ような気がしたからである。