レイチェル・カーソンが1962年に発表した「沈黙の春」は、農薬の無制限な使用について世界で始めて警告を発した書として全米ばかりではなく世界をも揺り動かした。
私が彼女に興味を抱いたのは「沈黙の春」を書くにあたって彼女が戦わなければならなかったその戦いの大きさである。
彼女自身の病や身内の不幸にとどまらず、そして州政府、中央政府、製薬会社などを敵にまわしての「沈黙の春」の執筆だった。世に烈女といわれる女性がいることは確かであるが、彼女の写真から見える柔和さや穏やかさはそうした性格のものとは程遠いような気がする。
むしろ彼女は繊細で傷つき易そうにさえ見えるのだが、「沈黙の春」に対する反撃は、彼女自身の人格に対する誹謗・中傷にまで及んだ。彼女を支えた力とは一体何だったのだろうか。
彼女は次のようなことを言っている。「創造あふれる作家はどのようなものか、どんな魂の栄養をとらなければならないか、ほんとうはだれも知らないと思います。確かなのは、私を人間として深くあいしてくれる人、ときには押しつぶされそうな創造的な努力の負担を、自分のことのように受け入れてくれる包容力と理解の深さをもつ人、相手の痛みや心身の疲れ、ときに訪れる暗い絶望感に気づくことのできる人ー私や私が作ろうとしているものを慈しんでくれる人がいる、そのことが私にとっては欠かせないということです。」
レイチェル・カーソンはアメリカ・ペンシルベニアで、母親によれば「稀に見る美しい子」として生まれ、母親の影響の下で文学的才能を開花させていく。
そして地元のペンシルヴァニア女子大学に進み、そこで作家になるため英文学を専攻するが、必修科目となっていた生物学の授業に魅せられた彼女は、悩み抜いた末途中で方向を転換、生物学者になる道を歩み始める。
そして彼女は海洋生物学者としていくつかの本を出し、全米図書賞の候補になるほどの本で充分にその名は知れ渡っていた。
「彼女の書物は人並みすぐれた叙情的な描写でそしてまた海のどこにもいる、そしてまた風変わりな生き物のようすを、まるで深い海底へガイドがついた潜水艦のツワーに行ったかのように見せえてくれる。」
つまり科学者としての観察力と詩人的な閃きが一体となった内容なのだ。
彼女の人生の大きな転機との「めぐり合わせ」は1958年1月に彼女が受けた一通の手紙であった。その手紙には身近なところで毎年巣をつくっていた鳥が薬剤のシャワ−によりむごい死に方をしていたことが綴られていた。
実は海洋生物学者としてすでに本を出していた彼女のもとには、同じような何通かの手紙がきていたのだが、もはやそれを無視できないところに来ていることをこの時に感じた。
DDTは1939年に発見されDDTが害虫を駆逐し大きな収穫の向上が見られその経済的な利益ははかりしれず、当時州当局が積極的に散布していたDDTなどの合成化学物質の蓄積が環境悪化を招くことはまだ表面化していなかったのである。
彼女はいくつかの雑誌にDDTの危険を訴える原稿を送ったが彼女の警告はほとんど取り上げられることはなかった。
心を痛めていた彼女は雑誌社の編集者にこうした問題の本を書き上げる人物はいないかと打診したが適当な人物は見当たらず、結局彼女自らペンをとる決心をする。
しかし彼女の専門は生物学でありこうした問題を取り扱う化学的知識は充分とはいえなかった。さらに彼女が本を書くことによって連邦政府・州政府・製薬会社を敵にまわすことは目に見えていたのである。
彼女自身がかつてアメリカ内務省魚類野性生物局の公務員として働き安定した収入を得ていたその政府を相手に戦うことになるのだ。
彼女は本を執筆する際に少しでも疑問を覚えたならば、直接手紙を書いて尋ねたのである。これはこうした専門家達が敵となる政府や会社に対して味方になってくれるという彼女なりの戦略でもあった。
しかしその過程では覆いかぶさるように苦難が待ち構えていた。まず彼女に生命に対する目を開かせてくれた最愛の母親を失うという不幸、両親を失った親戚の子供を養子にむかえて育てる負担、そして自身を「病気のカタログ」と呼ぶほどに体中を蝕む病の進行、州政府からの攻撃、そして製薬会社からの反キャンペ−ン、のみならず彼女の人格や信用に傷つける非難や中傷の数々と戦わなければならなかったのである。
1962年、それでも「沈黙の春」を書き上げた彼女は、編集者の感動に満ちた電話の声を聞きすべての労苦が報われたと感じた。そして自室でベ−ト−ベンのバイオリン協奏曲を聴いた時に涙が止め処もなくあふれ、「沈黙の春」がそれ自身の新しい生命を獲得したことを知ったという。
彼女を支える力はどこから来るのか。まず生物学者としての命に対する高い感性からくる繋がる命への確信が彼女の心を様々な圧力を撥ね退けたのではないか、と思う。
彼女は友人につぎのような手紙を書いている。
「私がいまやっていることの重要性をいかに深く確信しているかをあなたはわかっていると思うの。事態を知っているのに沈黙をつづけることは、私にとって将来もずっと心の平穏はないということだと思います。」
もう一つは、逆説的だが彼女自身の「死の予感」が彼女に力を貸したような気がする。
人はある種のヒロイズムさえ与えられれば、自分を超えるもののために死ぬことはできるものだ。しかし彼女の力をささえたものは命の連鎖に対する知識と想像力であった。 彼女の人生観の一つが「死したものは物質として海にかえっていく」である。
1964年4月14日、56歳の彼女はメリ−ランド州シルバ−スプリングで生涯を終え、彼女が最も愛した海へとかえっていった。
それは生命の海に自らを捧げたような死であったように思う。

  「すべての海岸で、過去と未来がくり返されている。時の流れの中で、あるものは消え失せ、過ぎ去ったものが姿を変えて現れてくる。海の永遠のリズム−それは潮の干満であり、打ち寄せる波であり、潮の流れである−のい中で、生命は形づくられ、変えられ、支配されつつ、過去から未来へと無情に流れていく。・・・」
(「海辺」より)