福岡県八女市出身の五木寛之の小説「青春の門」や「戒厳令の夜」に福岡県の筑豊炭鉱が描かれている。
「戒厳令の夜」は福岡市の繁華街・中洲のバーで一人の老人が一枚の絵画とであったことから始まる。
その絵はスペインの大画家パブロ・ロペスのものだった。占領下のパリでナチスに略奪され、杳として行方の知れなかったコレクションが、今なお日本のどこかに眠っている。
主人公が謎をおっていくうちにヒットラーがその収集していた絵画を、当時ドイツと同盟していた日本の筑豊炭鉱に隠したということが判明したのである。
私はこの小説が史実と思い込み、筑豊炭鉱について色々と調べてみた。
だがヒトラ−が各地に名画を隠したことは事実ではあるがこの小説はあくまでフィクションである。
私の勘違いが筑豊との「めぐり合わせ」ともなった。
それまで私の生活圏は炭鉱から離れており、炭鉱での働く人々の生活について少しの関心をもつものではなかったといっていよい。
私が中学に進む頃には日本のエネルギ−転換は進み石炭を生産してきた炭鉱の多くがすでに閉山になっていた。
炭鉱といえば、小さい頃テレビでみた大牟田・三池炭鉱の争議や斜陽になりつつある街で三池工業高校が夏の甲子園で優勝したこと、その時の監督が現在の読売巨人軍監督の原辰則の父親・原貢氏であったことをよく覚えているくらいである。

ところで五木寛之の小説に登場する架空の人物パブロ・ロペスの絵画には出会うことはなかったが、図書館の特設コ−ナ−で炭鉱の生活をなまなましく描いたもうひとつの絵集に出合うことができた。その絵集は、炭鉱で生きた人々を生々しく伝えた壮大なノンフィクションでもあった。
この絵集を手にしたときにぜひ一度、飯塚市を中心とした炭鉱の町を訪れたいと思うと同時に炭鉱の失われた風景や人間の姿を描きつづけたこの作者に興味を抱いた。そして田川にある炭鉱資料館を訪問しこの絵集の作者・山本作兵衛について多くを知った。
  作者・山本作兵衛は1892年、福岡県嘉穂郡笠松村(現飯塚市)に生まれた。6人兄弟の次男であり、父・福太郎は遠賀川の船頭であった。
 遠賀川で石炭輸送に従事した父は、筑豊興業の開通により船頭に見切りをつけ炭鉱に移って採炭夫となった。作兵衛は、父の仕事の手伝いと子守りにおわれ学校にもほとんど通うことができずに唯一の楽しみは絵を描くことであった。
 小学校卒業後、採炭夫として後山の仕事をした。後山(あとやま)とは、先山(さきやま)である採炭夫を助けて、掘り出した石炭を運搬する仕事である。
 体力旺盛な山本にも坑内労働は過酷で何とか逃れ別の仕事につこうとした。福岡にでてペンキ屋に弟子入りしたこともあった。
 二十歳の頃から、鍛冶工となり絵筆を握ることはなかったが、紙の余白などに絶えず文字以外のものを描いていたという。1916年結婚し、鍛冶工の仕事では生活することが出来ず坑夫に戻る。そして一家8人の口を糊するために死に物狂いで働いた。
1945年、長男の戦死が作兵衛の転機となった。長く尾をひく心の寂しさが炭鉱の記録画を描くきっかけとなった。気を紛らわすためにヤマの有様を描いて残そうと絵筆をとりはじめたのである。
しかし1955年ごろより筑豊の山はつぎつぎに廃坑となった。60歳をこえて解雇され、警備のしごとなどをした。
山本氏がはじめて画用紙と名の付くものを買った68歳の時である。かくして昭和40年の初頭までに一千枚を超える絵が描かれた。
炭鉱のなかでは小さな事故が頻発した。落盤事故、水、爆発などである。作兵衛が炭鉱にはいって200人近い人々が亡くなる大事故がおきた。炭鉱で生きる人々は常に死に直面していた。
事故があっても操業を続ける意志が経営者側にあれば、人命救助は必ずしも先行されず、坑内火災がおきれば、その坑道を締め切るか、あるいは水を導きいれて消す他はない。坑内に取り残された犠牲者の搬出は「絶望」の言葉によって あとまわしにされる。
斜陽を迎えた時代の炭鉱では事故は閉山の格好の口実にさえなっていた。
坑内で拍手をするな、頬かむりをするな、ご飯に味噌をつけるなどの迷信を人々は信じていた。
それゆえに死ぬ時は一緒という意識が絶えず坑内にあり、相互扶助の意識はきわめて高かった。その意味で炭鉱の長屋に生きる人々の姿は、「日本人の原風景」でもあった。
山本氏の教えてくれる坑夫の姿は、けして筋骨隆々の男達ではない。むしろやせ細った貧弱なといった男達の姿があるのだが、これが実相をつたえているのだろうと思った。
山本氏の絵は1963年に「明治大正炭鉱絵巻」として自費出版され世に知られることになった。それから十数年後の1977年、山本氏が85歳の時に西日本文化賞が与えられた。
また山本氏は、絵ばかりではなくノートに炭鉱の記録を詳細にのこしておられる。 そこには炭鉱で生きる人々の息づかいまでが伝わってくる。上野英信や土門拳はじめ山本作兵衛の絵画に感銘をうけた人は多い。
 山本氏の「明治大正炭鉱絵巻」に収められた創作期間約10年間の奇跡的な燃焼をもって描いた山本氏の絵は、炭鉱の語り部としていまなお人々に新鮮な驚きを与え続けている。
私は2005年1月、山本作兵衛の原画をもとにして作られた萩原吉弘監督のドキュメンタリー映画「炭鉱(ヤマ)に生きる」をみた。この映画の中で一人の古老がいった言葉が印象に残った。
「アリのように小さな生涯だったかもしれない。しかし、人生に一点の曇りもなく生きてきた。」