ユダヤ人の執念


スギハラとアイヒマン。ユダヤ人にとって忘れられない名前である。恩人としてそして仇敵として。ユダヤ人は戦後も二人を探し続け、それぞれを発見している。

1940年7月27日、 リトアニアのカウナスにいた外交官・杉原千畝は運命的な出来事に遭遇する。
杉原は、ナチスの迫害に追われた、大量のユダヤ人難民に出会うことになった。ユダヤ人難民たちは、ナチスから逃れるために、日本の通過ビザを求めて、カウナスにある日本領事館に、殺到していたのである。
 領事館の日本通過ビザ発行の慣例では、行き先の相手国が発行したビザ、あるいはそれに代わる書類の提示を必要としたが、ユダヤ難民たちの多くは、希望する相手国が発行した書類をもつはずもなかった。
当時の西欧の国々は追われてきたユダヤ難民を受け入れる国はほとんどなく、パレスチナを管理していたイギリス政府は1939年の春、パレスチナに移住するユダヤ人の数を厳しく制限していた。
杉原は、緊迫してきた1940年7月から9月初旬に、何度も外務大臣あてに電報をうち、本省にビザ発行の許可を求めたが、ビザ発行に反対の返事だけが返ってきた。 そいてついに公式の許可なしに、つまり自分だけの責任において日本の通過ビザの発行に踏み切った。そして、杉原は同年7月から8月26日までに、2139人の「杉原リスト」として知られるビザを発行した。
8月29日、杉原はドイツ併合下のプラハ総領事館勤務を命じられ、カウナスの領事館を閉鎖して、ベルリンへ向かった。しかし杉原は、汽車が発車する直前まで、ビザの発行を続けた。杉原ビザによって救われたユダヤ人は約6000千人にのぼった。
そして終戦を迎え、しばらく杉原はブカレスト郊外の強制収容所に放り込まれ、辛酸の日々を送る。1947年にようやく日本にたどりつき外務省に復帰することができた。 しかし外務省はまもなく大々的なリストラを断行し、戦前の話とはいえ外務省の命令を意図的に無視した杉原はその対象とならざるをえなかった。
リトアニアでの命令違反が問題とされ、勝手にビザを発給した責任を追及されたのである。 杉原氏はただちに辞表を提出し、二度と外交の世界に戻ることはなかった。このために杉原に対して「悲劇の外交官」という言い方がなされる。
外務省を退職した杉原はその後、進駐軍やNHKに勤務したあと、得意のロシア語を活かして日ソ貿易に従事した。
そして彼のことや彼のしたことは、すべて忘れ去られようとしていた。 しかし救われたユダヤ人達は杉原をけして忘れなかった。 ユダヤ人達は戦後も恩人・杉原を捜し求めた。そして1968年ついに東京の貿易会社で働く杉原を見つけた。

 アドルフ・アイヒマンはナチス親衛隊中佐でヒトラ−の片腕となった人物である。第二次大戦中、その指揮のもと強制収容所で殺されたユダヤ人は600万にのぼる。
いかに低コストで効率よくユダヤ人を抹殺するかを考え実行した人物である。
敗戦時、米軍に捕えられたが脱走する。世界中に潜伏しているナチス戦犯を探し出し逮捕もしくは暗殺するという任務があったモサドに、アイヒマンの情報が飛び込んできた。
1959年12月リカルド・クレメントという偽名でアルゼンチンの自動車工場に勤めていたアイヒマンらしき人物を発見した。モサドはアイヒマンと思われるこの男の張り込みを続けた。そして決定的な証拠は、家族でアイヒマンの誕生祝をした時のことだった。モサドはアイヒマンの誕生日を知っていたのだ。
1960年5月11日、モサドは帰宅途中のアイヒマンをついに逮捕(拉致)した。
裁判は61年にエルサレムで行なわれ、翌年5月に死刑が執行された。公判中のアイヒマンの「一人の死は悲劇であっても、数百万の死は統計上の問題にすぎない」などの発言で有名である。
ところでこのアイヒマンと直接に対決したブダペスト駐在スウェーデンの公使がいた。
杉原と同じようにラウル・ワレンバーグは、ユダヤ人を救出するためビザをばら撒き続けていた。あるパーティーでワレンバーグはアイヒマンと出会う。ユダヤ人から手を引けと言うアイヒマンに対し、ワレンバーグは毅然とそれを拒否する。
ワレンバーグがアイヒマンに「あなたは人間じゃない悪魔だ」と罵るとアイヒマンは「私は命令に忠実ないちドイツ人だ。少し勤勉すぎる嫌いはあるが」と返した。
この後、アイヒマンはワレンバーグを暗殺しようとSS(ナチス親衛隊)仕向けるがワレンバーグは自身の命を捨てる覚悟でユダヤ人の救出を続けた。
ドイツがソ連に敗れると、ワレンバーグはソ連軍へ事後処理のため交渉に行く事となる。しかしワレンバーグは二度と帰ることはなかった。なんと彼はスパイ容疑でKGBに逮捕されシベリアに送られていた。
アイヒマン逃亡、ワレンバーグ獄死という皮肉なめぐり合わせ。
ワレンバーグこそ「悲劇の外交官」という言葉がふさわしい人物である。