大崎善生と将棋の子達


鮮やかな青春小説「パイロットフィッシュ」で一躍世に知られた作家大崎善生は、それ以前に「聖の青春」や「将棋の子」で将棋に生きた天才少年達の姿を書いている。この作家に興味を抱き経歴を調べてみると、日本将棋連盟に職をもち雑誌「将棋世界」の編集を勤めたことなどがわかった。そういえば「パイロットフィッシュ」の主人公はある成人雑誌の編集者であるという設定になっている。
氏のデビュ−作「聖の青春」は悲運の天才棋士・村山聖(さとし)という人物を描いている。 私は以前、将棋部の顧問を経験したが、それでも全く将棋を覚えなかったというほどの将棋オンチであるが、自分の知らない世界に生きる人々の生き様には大いに好奇心を掻き立てられる。そして作品の主人公で実在の村山聖という人物をインタ−ネットで調べてみた。
聖少年は5歳の時にネフローゼという腎臓の難病にかかり、6歳の時に将棋に出会う。めきめき頭角をあらわし、中国こども名人戦で5年連続優勝したり飛車落ちでタイトルホルダーを破ったり、中学一年で上京して時偶然出くわした伝説の棋士を破ったりしている。
谷川浩司が名人になったニュースを聞き、プロ棋士を目指す。1982年、森信雄を師匠とし、奨励会を受験・合格するが、他棋士とのトラブルで入会が認められず、翌年再受験して入会することができた。
奨励会入会後、異例のスピードで四段に昇進し、プロ棋士となる。 師匠である森は単身で暮らす病身の村山を親身な世話をして支えた。
村山は生来闘争心が激しく、ライバル棋士たちに対しては盤外でも敵意剥き出しの対応をすることが多かったが、羽生に対してだけは特別の敬意を払っていたという。
村山は「怪童丸」の異称で呼ばれ、奨励会員時代から「東の羽生、西の村山」と並び称されたほどの実力者となっていた。しかし体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあり、実績では羽生に遅れを取ることとなり、1992年に王将への挑戦者となり谷川浩司王将と戦うも敗れている。
 その後、病と闘いながらもA級八段までのぼりつめたが、血尿に悩まされるなどで順位戦の成績が不振で1997年春B級1組に降級する。その後、進行性膀胱ガンが見つかり入院、膀胱を全摘出する大手術を受けるが、休場することなく棋戦を戦い続けた。脳に悪影響がでて将棋に支障がではしまいかと抗がん剤・放射線治療を拒んでいた。
1998年春 A級復帰を決めたが、ガンの再発・転移が見つかり、「1年間休戦し療養に専念」する旨公式発表、1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終え、対局の場から姿を消した。 同年8月8日、入院先の故郷・広島の病院で29歳にて他界している。
本人の希望により家族のみで葬儀が行われ、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ、大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟はその功績を讃えて逝去翌日の8月9日付けで九段を追贈した。
 私がもう一人紹介したい棋士が作家・大崎義生の妻である高橋和(やまと)さんである。
4歳の時に交通事故に遭い左足の切断も考えなければいけないほどの重傷を負った。治療のための入院・手術を繰り返した。娘に生きる術を与えんという父親の配慮で7歳の時に将棋に出会った。14歳でプロデビューする。タイトル挑戦などの履歴は無いが、事務所所属のタレントとして、テレビへの露出などを通して、女流棋士の存在を大いにアピールした。子供への普及活動にも熱心で、そちらにより専念するため、2005年2月、現役を引退する。
今の彼女がもつすがしさや気さくさから、苦しい幼児期を過ごした痕跡を感じることはできない。 大崎は、妻である高橋和と難病にある少年との交流を作品「優しい子」に描いている。
将棋という世界で年少の子供達が繰り広げる生き残りの戦い。わずか一手の違いによる夢の途絶。傷ついたもの。敗れ去ったもの。小さな胸に抱いた苦悶や苦闘はおそらくは身近な者達のしか知ることはないであろう。
作家大崎氏が鮮やかに描いてくれたおかげで私はその一端を垣間見ることができた。