血統が何よりも重んじられた日本の中世において、何かの争乱で高貴な血筋の人々つまり「貴種」が逃げ込んでくる場合がある。これはそこに住む人々にとって有難いようで、自分達の存立を危うくする「危種」にもなりうるものだ。
草の根を分けても「貴種」を探そうとする追手が匿った人々を滅ぼすかもしれない。これはそこに住む人々にとってどうしようもない「めぐり合わせ」という他はない。
ところで源頼朝は平氏により伊豆に流されるが、関東武士団は源頼朝という「貴種」を擁して結束した。これは平氏政権に対抗する関東武士団の利害の一致が背景にある。奥州平泉に追われた義経は、一旦は藤原氏に匿われるものの頼朝に睨まれては立場を悪くすると恐れた藤原氏に結局は殺害されてしまう。
そこにもやはり利害がはたらいた。
もし「貴種」が逃げ込んだ先が名もなき村であるらば、か弱き村人(郷士)達はどのように行動するだろうか。
「貴種」を命がけで守ることも、逆に売り渡すことだってできるはずだ。
以下は一つのケ−ス・スタディである。

奈良県の山奥深くに「筋目」と呼ばれる人々がいる。
春には桜が山をおおいつくす奈良県・吉野は南北朝動乱期に後醍醐天皇が行宮をおいた地として有名である。この吉野からさらに山奥深く入ると後南朝の悲史を今なおとどめる川上村がある。1392年足利義満は後亀山天皇に両統迭立(両党交代で皇位につく)を約束し南北朝が合一した。
しかし義満はその約束を踏みにじり、後亀山上皇は激怒し吉野に脱出し、これ以後の南朝政権を特に「後南朝」という。南朝合一後の、再びの「後南朝」のその後の命運が語られることはほとんどない。
後亀山天皇の子・小倉宮、つまり義満が約束を守っていれば天皇になるはずの人物は空しく病死する。
しかし小倉宮の子供である尊義王は自分こそは正当な皇位継承者であるとして奥吉野に御所を築いた。
そして尊義王の子にあたる兄弟の時代にその配下が京都御所に進入し三種の神器のひとつである神璽を奪い兄の宮は自ら「自天皇」を名乗った。
 ところが足利氏は一度は取り潰した赤松氏を差し向け自天皇とその弟・忠義王を殺害した。急をしった川上村の郷士達は赤松残党を追跡し、自天皇の首と神器を奪還し、自天皇の首を近くの岩に安置し全員でこれを伏し拝んで号泣したという。ここに南朝の正統は途絶えたのである。
 南朝最後の帝王・自天皇に最後まで忠節を尽くした川上村の郷士たちとその子孫を「筋目」という。
この人々は自分達の利害を超えて「貴種」を守り抜こうとした「スジガネ」入りの人々である。
筋目達は今でも、自天皇の供養を欠かさず毎年2月5日に朝拝式という儀式を欠かさずおこなっている。

広大な筑後平野と有明海にそそぐ筑後川でよく知られる福岡県・筑後地方の南部の山々は、奈良県吉野と同じく南朝の悲史を多く留めた場所である。
実際、筑後には宮の陣、大刀洗などの戦いを想起させる多くの地名がの残っている。
後醍醐天皇と足利尊氏の対立に端を発した南北朝の動乱は日本全国に広まるが、京都の五条家は南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王を守るべく九州まで付き従った公家である。
後醍醐天皇は南朝勢力を拡大するため全国に自らの皇子を派遣した。義良親王を奥州に、宗良親王を遠江に、満良親王を土佐に、恒吉親王を越前に、そして懐良親王を九州に派遣した。
  つまり後醍醐天皇は地方の武士を結集するために最高の「貴種」である親王を派遣した。この時、皇子の中には10歳にも満たないものもあったが、何よりも血統がものいう時代であったのだ。
  ただ奥州の義良親王には公家である北畠顕家が軍勢を引きつれていったが、九州の懐良親王には五条頼元を筆頭に十数人の公家が付き従ったにすぎない。
  それにもかかわらず懐良親王は九州の菊池氏を味方につけ一時は九州を制圧するほどの勢いをもった。1359年九州における南北朝の最大の戦いである筑後川の戦い(大保原の戦い)で南朝が勝利し一旦は大宰府を制圧した。
そして1361年に征西府を熊本の菊池武光の居城・隈府から大宰府に移している。この時九州は一時的には独立王国のようになり、中国大陸からみて懐良親王は「日本国王」のように見えたという。
しかし1336年多々良が浜の戦いで勢いにのる足利尊氏の北朝勢力におされ南朝勢力は筑後の山間に逃げのびた。
筑後川の戦いで、懐良親王の陣地があったところが「宮の陣」で西鉄大牟田線の駅名ともなっている。またこの戦いで菊池武光が血刀を洗った場所が「太刀洗」で大刀洗町の町名のおこりとなっている。
 さて南朝の懐良親王は高良山を根拠地として抗戦し続けたが劣勢をはねかえすことができぬまま、征西将軍を後村上天皇の皇子・良成親王に譲る。
良成親王は奥八女の矢部山中の大杣で先述の五条氏に守られ再興をはかろうとしたが、それもかなわずこの地に没する。
筑後地方の矢部村には南朝の懐良親王の墓があり、また良成親王の御陵はさらに山深い所にありその地には「御側(おそば)」という地名がついている。私は「御側」という地名を知った時に、良成親王の「お側」に仕えたであろう少数の村人達のことを思った。
五条家は、黒木町のおそらく昔とほとんど変わらぬ佇まいの中にひっそりとしてある。そして五条家の末裔達は、川上村の「筋目」とよばれる人々同様に、いまもなお懐良親王、良成親王の墓を守っておられる。

福岡県太宰府は平安時代に菅原道真が流されたところである。また幕末には公武合体派の巻き返しに三条実美ら七人の公卿が長州に逃れ、そのうち五人が太宰府に滞在した。
五卿は監禁されていたわけではないので、時々太宰府周辺を小旅行して地元の人々と交流をしている。こうした人々は、五卿が書いた書や短冊、残していった物品などを家宝のように大切に保存しているところを見ると、「貴種」との交流をいかに大切にし尊んだかと思わされるのである。