創造的であるということは、新しいものを生み出すこと。何もないところから新しいものを生み出すという創造もあろうが、既存のものを新しい方法で組み合わせるつまりニュ−アレンジもやはり創造的なことであろう。
福岡で生まれたセ−ラ−服と明太子は、おのおの創造的アレンジを行なった二人の人物によって生み出された。
二人の共通点はかつての生活の場に身近にあったものを生かしてアレンジした点である。そしてそれらは彼らの予想をはるかに超えて支持をうけていく。
ブレイクするのに必要な小さな「めぐり合わせ」もそこに働いていた。

スケトウダラを加工して食べる食文化は、17世紀ごろ朝鮮半島で広まっていた。 福岡県朝倉郡三輪町出身の川原家は日韓併合後、釜山にわたり回漕業を営んでいた。
1913年、川原俊夫はその朝鮮・釜山に生まれた。 川原俊夫は釜山中学卒業後、1932年に長春に本店があった満州電業に入社した。そして1936年、福岡県糸島郡北崎の出身の田中千鶴子と結婚する。
田中家は川原家と前後して釜山にわたり、川原家と同様に海運業を営んでいた。
田中千鶴子は釜山高等女学校出身で陸上の選手としてならし、戦前の朝鮮全道の100メ−トル女子記録保持者でもあったという。
川原は、1933年20歳の時、徴兵検査をうけ、以後約11年間召集と解除の繰り返しで、沖縄戦の際には宮古島の守備隊で地獄を見てきた。 戦友達が栄養失調やマラリアで死んでいき、川原の胸に「一度は死んだ身」という意識を強く刻みつけた。
川原が沖縄戦を戦っていたころ、千鶴子は三才の息子の手をひいて移り住んだ満州から引き揚げてきた。
1946年博多に戻ってきた川原夫妻は、ある日「中洲市場25軒を引揚者に」という入店募集の記事をみた。 川原は入店を決めた。当時、中洲は1945年6月の福岡大空襲で焼け野が原であったが、この日は川原がこれから始めようとする事業の記念すべき日となった。
川原が開いた店ははじめ乾物食品ばかり扱っていたが、夫妻は釜山で食べたタラコの味が忘れられず、1950年ごろからキムチ風の味付けでタラコを自宅裏で漬け始めた。
「メンタイ」とは韓国語でスケトウダラのことで「明太」と書いて「ミョンテ」とよぶのだが、タラコ(スクトウダラの卵)はその子供ということで「明太子」(めんたいこ)と名付けた。
川原は「味の明太子」をつくりあげるまで、長い時間をかけて試行錯誤している。まず、メンタイ用の唐辛子を求め、京都のある会社を紹介される。この会社はカレ−紛の製造・販売そして世界の各種香辛料の調合と販売で知られる会社であった。
また、肝腎の原料のタラコの高い塩分をどうやわらげ、卵の旨みとプチプチ感を蘇らせるかに頭をいためた。 何よりも原料であるスケトウダラの卵の質が良くなければならない、というのが絶対の条件だった。
結局、俊夫の目にかなったものは、北海道羅臼、稚内、釧路で水あげされ、加工されたタラコだった。
最後に一番苦労したのが「調味液」であった。どんな調味液に、どのくらいの期間、漬け込むかによって味はきまる。 いわば秘伝の味であった。
川原の店「ふくや」は食料品店としてしだいに知名度はあがっていったが、「明太子」は最初の12、13年は全く売れず、売り上げにはまったくむすびつかない奇妙な存在だった。
最初は冷房施設も十分ではなくしゃれたガラスケ−スもなかったため金魚鉢を洗って店にだしたりしていたが、作っては捨て、作っては捨ての連続でしだいに味に改良を積み重ねていった。
タラコをつけ続けることをやめなかったのは、夫妻が釜山で食べたタラコが何よりも好きだったからに他ならない。 また、川原の中で、「明太子」の味には、いつか必ず売れるようになるという確信があった。
近所の冷泉小学校の先生達が昼ご飯のおかずにということで「明太子」を買いに来るようになり「明太子」の味は口コミで広がっていく。
明太子がよく出始めたのは1960年頃からで小料理屋さん達が酒の肴に「明太子」を注文するようになった。
開発に長い時間をかけた商品が、ある日突然、売れ始めた。つまりブレイクした。
朝積み上げた「明太子」の箱の山が夕方にはきれいになくなっている。
中洲の繁栄と呼応するかのよう新幹線の博多開通という「めぐり合わせ」もあった。
新幹線開通を契機として「明太子」は全国的に知られるようになる。

現在の福岡女学院は、1885年福岡市呉服町に「英和女学校」として生徒数二十数名で発足し、天神校舎・平尾校舎を経て現在地の福岡市南区日佐に1960年に移転した。
ちなみに、明治から大正にかけて31年間校舎として使った天神校舎は、石炭王・伊藤伝右衛門に売却され、それがのち柳原白蓮が住んだ「赤銅御殿」となっている。
1915年にアメリカからエリザベス・リ−校長が9代目の校長として着任した。以後、途中帰国を含め計11年間、福岡の地にとどまり中央区平尾(現在の九電体育館あたり)への校舎移転やメ−クイ−ン祭(五月の女王)などの学園祭創設など、多くの功績を残した。
新任のリ−校長ははじめ日本語が話せず、何とか生徒と溶け込もうと、当時アメリカで流行していたバスケットボ−ルやバレ−ボ−ルを指導した。 ところがこれが思わぬ不平を買ってしまう。
当時の女学生の服装は着物にハカマ。これでバレ−やバスケットをやると、どうしても汚れてしまう。
「この間洗濯したばかりなのに、もうこんなに汚れてしまって!」とか、 「すそを乱して飛び跳ねるているようでは、嫁のもらいてがなくなる」といった苦情まででてきた。
生徒達の表情はスポ−ツを通して日増しに明るくなっていくのに反比例して悪評は日毎に増していった。 頭を抱えたリ−校長は、着物とハカマに変わる新しい制服はないかと、と探し始めた。
いろいろ洋服屋を訪ねたり、雑誌をめくったりしたが、なかなかいい制服は見つからない。
思案のあげく、リ−校長は自分がイギリスに留学していた時代に新調し、来日したおりにトランクに入れてきた水兵服を思い出した。
これがが彼女にとって大きな「めぐり合わせ」だったとは彼女自身も気づかなかったであろう。
つまりトランクの中に大ブレイクの火種が潜んでいたのだ。
1921年彼女は早速、布地をロンドンから取り寄せ、知り合いの洋服屋・大田豊吉のところに行き、リ−校長持参のセ−ラ−服をモデルに試着品を作らせた。
水兵服に似た当時のトップモ−ドを保護者に披露する。 同店で試作すること8回の後、ようやくリ−校長のGOサインがでて、生徒150人分を3ヶ月がかりで縫い上げた。
この時完成したセ−ラ−服の形は今のものとほとんど変わらない。
当時はこのセ−ラ−服姿、街行く人々の注目を集める。 やがて函館のミッションスク−ルからの照会があり、洋服屋の主人は北海道に1ヶ月の出張となる。
さらに東洋英和(東京)・プ−ル(大阪)・九州女学院(熊本)・西南女学院(小倉)などから続々とサンプルの依頼が届き、大田豊吉はセ−ラ−服つくりに東奔西走の日々を送ることになる。
エリザベス・リ−校長が最も心血を注いだセーラー服の制定は全国に先駆けたものであった。