小説家の五木寛之がヒットラーが集めた絵画コレクションを日本の筑豊炭鉱に隠したというモチ−フで「戒厳令の夜」という小説を書いている。
私はこの小説を史実と思いこんで筑豊に隠されたという絵画の作者・パブロ・ロペスを調べたのだが、これが全く架空の人物であることがわかった。
ただ作家は創作部分と事実部分とをバランスよくストーリーの中に織り込めば結構リアリティーの高い物語が生まれるものであることがわかった。
その後私の創作欲が少しスイングしてしまったため、以下の如きフィクションをつくってしまった。
もちろんいまだ小説らしき形にはなってはおらず、とりあえずはアウトラインだけが頭に浮かんだので以下に紹介したい。
モチーフは「ヒットラーが隠した絵画」ではなく、「行方不明になった北京原人の化石人骨」である。
1927年秋、北京郊外の周口店で50万年前に生存していた人類の祖先「北京原人」の下顎の臼歯が発見され、その後、頭蓋骨が発見され、人類の進化の歴史に新しい光を投げかけることになった。
北京原人の化石人骨はずっと北京の繁華街・王府井近くの協和病院の金庫に保管されていたのだが、その後行方不明となり、いまだその化石人骨は発見されず今日にいたっている。

<フィクションとして>

太平洋戦争が勃発した直後、中国の人類学者である魏教授は北京協和病院が保管場所としてもはや安全でないと判断し、北京原人の化石を米国に移送することを提案した。
1941年12月、北京協和病院の総務部長が「化石を箱詰めにせよ」という命令を受け、合計147枚の化石人骨をレンズ拭き用の紙と綿で巻き木箱に詰め中国駐在の米国大使館に運んだ。
北京原人の化石人骨はトランクに詰められて物資輸送船に載せられ米国に運ばれることになった。しかし途中に、輸送船が日本の潜水艦により臨検をうけ化石人骨は日本海軍によって奪取された。その後、この輸送船は航行を続けたものの太平洋の鳥島付近で魚雷攻撃をうけ撃沈されている。
日本海軍は、奪い取った木箱の中に何重にも保護されている化石人骨を発見し、それがどんなに重大な歴史的な意義をもつ化石であるかを判別できぬままであった。
その後、艦船が広島宇品港に到着するや広島大学に持ちこんだが、当時 北京の燕京大学教授であった人類学者である中島隆三に写真を送り問い合わせたところ、それが協和病院から行方不明となっている北京原人の人骨の化石である可能性が高いことが判明した。
 ただ当時の政治状況では化石人骨の研究つまり「日本人のルーツ探し」などきわめて困難な状況であったため、化石人骨は中島隆三が東大人類学研究室で標本整理係をしていた頃にに知り合った学生で、この当時・九州大学医学部のS助教授の研究室に送られ保管されることになった。
このことは日本政府にも海軍にも知らせられることなく研究室の間で行なわれたのである。

ところでこの化石人骨が本当に北京原人かどうかという確証のないS助教授は、人骨の鑑定について専門家の意見を得ようと解析を同大学解剖学研究室に依頼した。
その間、本土空襲が始まり日本の敗戦は濃厚となりつつあった。日本の主要都市は空爆をうけ、福岡空爆も時間の問題となりつつあった。
1945年5月には不時着したB29の米兵捕虜の人体実験なども行なわれていた九州大学で、北京原人の可能性の高い化石人骨をこれ以上保管することは危険な状況になりつつあった。
S助教授は、この時すでに占領軍による化石人骨接収の可能性をも視野にいれていた。北京原人の化石人骨の行方はアメリカにとっても重大な関心事でもあったからである。
実は戦前より九州大学医学部解剖学研究室には、人体の特徴を研究しようと博多人形師達が出入りしていた。
S助教授は、知り合いの人形師達に化石人骨の秘匿を依頼したのである。人形師達はそれらをを人形箱にいれて、九州大学より3キロほど南西に位置する櫛田神社に運んだ。
櫛田神社は博多の町の守護神ともいわれる神社であるが、戦争のために祭りは行なわれなくなっていた。この神社の祭りである山笠祭りは全国的にも知られれており、戦前は毎年の飾り山笠は博多人形師達が手がけてきたものであった。
そういう意味で櫛田神社は人形師達にとってゆかりの深い神社であり、神のご加護を願う気持ちから化石人骨は人形師達によって秘密裏に神社境内奥の地下深くに埋められることになったのである。
その直後、福岡は激しい空襲をうけ皮肉なことにこの神社周辺の冷泉地区は甚大な被害をうけ、人骨を秘匿した博多の人形師たちも戦火や病気などで相次いで亡くなり、またS助教授も急性肺炎のために1947年に亡くなった。
そして北京原人の化石が安全か否か誰も確認するものもなく、その行方さえ知るものはいなくなったのである。
ところでS助教授の知人である燕京大学教授・中島隆三は徳島県の金物屋の次男として生まれ小学校を中退し、独学で人類学を学んでいる。1893年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入っている。
1895年以降の遼東半島の調査を皮切りに東アジア各地を精力的に調査し、中でも満州・蒙古の調査は彼ののライフワークともなっていた。
中島は学歴のない在野の研究者であり、そのためか「官学」東京帝国大学との対立は根深いものであった。東京大学の助教授ではあったものの1924年突然の職を辞し、自宅に中島人類学研究所を設立している。
太平洋戦争前に北京の燕京大学の客員教授に就任した中島は、戦争中も日本に帰らず家族とともに北京にとどまった。
1951年に日本に戻った中島を待っていたのは焼け落ちた自宅だったが幸い貴重な蔵書はすべて無事であった。生活は困窮を極めたがそのようすが新聞に取り上げられるや励ましの金品が送られてくるほどであったという。 無理な生活がたたってか帰国後1年で82歳でなくなってる。

在野の人類学者・中島隆三死後50年がたった2002年、北京原人の化石人骨について思わぬ展開が待っていた。
中島隆三は、研究所に満州中国北部を踏破した際に蒐集した多くの資料を公開していたのであるが、モンゴルで国立博物館を開く計画がもちあがり、中島の資料の再調査がおこなわれたのである。そして中島が残した書簡を調査したところ、九州大学の故S助教授から中島隆三にあてた手紙が発見されたのである。
そこには、日本の海軍によって収奪された北京原人の化石人骨が、福岡の櫛田神社境内に埋められてた経緯が記されていたのである。
中島研究所の研究員が手記をもとに櫛田神社の境内を掘ったところ腐りかけた博多人形を収める木箱が見つかり、その中ににガーゼに何重にも巻かれた化石人骨が発見されたのである。
医者による精巧な防腐処置がほどこされていたために化石人骨はしっかりとその形骸をとどめるにいたっている。
福岡・博多で人類の謎といわれた北京原人の人骨がついに陽の目をあびることになったのである。
ただ、その発掘事実については様々な政治的思惑がからみ未だに公にされないまま今日にいたっている。

<事実として>
@行方不明の北京原人
1929年12月2日、北京原人の頭蓋骨が周口店で最初に見つかった。しかし、日中戦争の激化により、化石は調査のためにアメリカへ輸送する途中に紛失された。紛失の前に協和医学院の客員解剖学教授であったドイツ出身の学者F・ワイデンライヒがすでに詳細な記録や研究を残しており、これが今日の北京原人の研究資料となっている。

A人類学者・鳥居龍蔵
私の上記の創作(フィクション)の中の中島隆三は実在の人類学者・鳥居龍蔵をモデルにしている。
私がドイツ人捕虜収容所を徳島に見に行った時にこの人物を知り興味をもった。
鳥居龍蔵は現在の徳島県徳島市東船場のたばこ問屋の次男として生まれる。小学校を中退し、独学で人類学を学ぶ。1893年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入る。1895年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を精力的に調査した。中でも満州・蒙古の調査は鳥居と彼の家族のライフワークとも言ってよいほど、たびたび家族を連れて調査に訪れている。
鳥居は在野の研究者であり学歴はなくそのためか「官学」である東京帝国大学との対立は根深いものであった。1924年、突如東京帝国大学の助教授の職を辞し、自宅に鳥居人類学研究所を設立したときには、多くの反響を呼んだ。
太平洋戦争前に北京の燕京大学の客座教授に就任した鳥居は、戦争中も家族とともに北京にとどまった。終戦後1951年日本に帰国する。鳥居の研究テーマの根幹にあったのは「日本人のルーツ」であり、東アジアの各地で、これほど綿密な調査がほかになかったため、鳥居の研究成果と写真は、現在でも第一級の資料となっている。 鳥居の収集した資料は、現在主に徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。

B博多人形師の解剖室通い
博多人形氏・白水六三郎は、立体表現や写実性などを人形製作に取り入れ博多人形の近代化をした人物である。白水門下の小島与一や原田嘉平らも白水の下で修行しこうした近代芸術の手法を十分吸収していった。
 1914年から二年間、九州大学教授・桜井恒次郎の教室で人体解剖学の講義を受けたことも、彼らが如何に造形に対して真剣に努力していたかを物語るものである。
1890年の第3回内国勧業博覧会と1900年のパリ万博に出品され「博多人形」の名前は国内のみならず、海外でも良く知られるようになった。

C九大医学部の人体実験
戦争末期の1945年5月 日本本土空襲のため飛来した超大型爆撃機B29が不時着した。 九州大学医学部に捕虜となったアメリカ兵8人が送られそこで人体実験が行われた。
片肺を取り除いても人間は生きていられるのか。血管に海水を注入するとどうなるのか。 医学部教授による人体実験は4回にわたって行われ捕虜達の死体は油山に埋葬された。
担当医者達は横浜裁判で死刑などの判決を受けたが、後に軽減され生き延びている。 遠藤周作の「海と毒薬」のモチ−フとなった事件である。

D冷泉地区
福岡市博多区冷泉地区は山笠で有名な櫛田神社などがあるが、福岡大空襲で最も甚大な被害を受けた 地区であった。現在、冷泉公園には戦没者慰霊碑が立っている。

だいたい以上5つの事実をできるだけ無理がないように「めぐり合わせ」て上記の創作をしました。