オ−ストリア海軍の英雄であるグスタフ・トラップはオ−ストリアのザルツブルクの名門貴族の出身である。
7人の子供に恵まれるが、妻を病で失い男一人で子供を育てることになる。しかし次女マリアが病弱であったこともあり家庭教師をさがすことになる。
 ちょうどその頃、ザルツブルクのアパ−トにマリア・アウグスタ・クチェラという女性がいた。
彼女は 小さくして両親を失い修道女として生きようと戒律の厳しさで知られるベネディクト会の修道院にはいったものの、あまりに自由奔放であたっために周りの修道女からも眉をひそられるようなことが度重なり、ついに修道女の道を諦め教師になろうと町にでて来ていたのである。
1926年 その彼女に名門トラップ家から家庭教師が欲しいという電話がかかってきたのである。 マリアは格式の高い家の家庭教師になることを躊躇するが、ギタ−を抱えてトラップ 家の屋敷を訪れる。
 トラップ家では、父グスタフが潜水艦の艦長であったために集合の合図は笛をもって行われていた。父が子を呼ぶときに一人一人音の組み合わせが異なっていたのである。
家庭教師となったマリアは、そうした家庭の雰囲気の中で、新しい音楽を教え次第に子供達に愛されるようになる。また色々な話を聞かせて7人の子供達は次第に母を失った哀しみを忘れていく。
 何よりもマリアは子供達に合唱曲を教え違うメロデ−がひつになって美しい曲になっていくことを教えた。子供達は合唱曲が歌いたくて散歩の時もいつも一緒に行動したという。
父グスタフもマリアの不思議な魅力に惹かれはじめ家庭教師としてではなく一人の女性として彼女を愛し翌年結婚する。
この時マリアはグスタフと25歳の年齢差で、長男とはわずか5歳の年齢差であった。子育ての苦労が偲ばれる。
 しかしやっとつかんだ家族の幸福は長続きしなかった。1929年の大恐慌の影響で トラップ家は一夜にして全財産を失うのである。この時は、さすがの英雄グスタフも憔悴しきっていたという。
 しかし一人元気だったのは妻マリアである。幼い頃から孤児として育った彼女はそうした苦難を乗り越える術を心得ていた。ザルツブルクには神学を学ぶ学生のために自宅の1階を礼拝堂にかえ、いくつかの部屋を神学生に貸し出したのである。
 この決断が一家の運命を大きく変えることになる。ある日一人の神父がトラップ家で過し家族の歌を聴き本格的な合唱の指導をした。
さらにある日、イタリアの有名なソプラノ歌手がザルツブルクでの音楽会の際にトラップ家を訪問し、家族の歌声を聴きコンク−ルの出場をすすめた。
そしてタラップ家の家族はそのコンク−ルで見事優勝し、トラップファミリ−聖歌隊という名で世に知られ、ヨーロ−パを回り次第に知られていく。
 しかし1938年のある日深夜に響く町中の教会の鐘の音が異常事態を告げる。ヨ−ロッパではナチスドイツが台頭していたが、そのナチスドイツがにオ−ストリアにも侵攻するのである。首相は降伏しなければオーストリアは血の海になると降伏をよびかえた。
そんな中グスタフはヒットラ−を公然と批判するものの、一族の執事であった青年ハンスがナチスに入党したことを告げ、いわばドイツにも名がしられていた一家の監視役となっていたのである。ヒットラ−はタラップ一家を党の宣伝に使おうとしていたらしくヒットラ−の前で歌を歌うことを促したが、父グスタフはそれを断固拒否した。
しかしハンスが迫る国境閉鎖の危険をひそかに知らせ家族のオーストリア脱出を暗に仄めかした。そして家族は歌うことだけを頼りに無一文で自由の国アメリカへと渡っていく。

 しかしアメリカに渡った一家であるが言葉も違い、モダンジャズがはやっていた当時のアメリカではタラップ・シンガ−ズの歌はなかなか受け入れてもらえず食べることにも事欠く日々が続いた。
人々はバッハではなくポピュラ−を聞きたがっていた。セックスアピ−ルが足りないと化粧をしたり歌い方を変えたりもした。
客とのコミュニケ−ションが必要だといわれ、母マリアが先頭に立ってト−クをおこなったりした。
また敵性外国人と疑われたために星条旗への忠誠を誓うために長男と次男は戦争に行きヨ−ロッパ戦線でドイツやオ−ストリアと戦うのである。
 そのうち家族は祖国オ−ストリア・チロル地方の風景に良く似たバ−モント州ストウという山間の場所を見つけロ−ンを組んで自力で家を建てた。
家族は時にコンサ−ト活動をしながらも、ほとんど自給自足の生活をしたのである。その後アメリカの雑誌「ライフ」がナチスを逃れてアメリカにやってきた理想の家族としてタラップファミリ−を紹介し人々に知られた。
1945年、戦争が終わり長男と次男が帰還し、バ−モント州ストウでの孫を含めた12人家族での生活が始まった。1948年一家はようやく念願のアメリカ市民権を獲得することができた。

1965年マリアの自伝を元に映画「サウンド・オブ・ミュ−ジック」がつくられた。 マリアは1987年亡くなるが、トラップ・ファミリー・ロッジは末っ子ヨハネスが今もなお支配人として経営している。
少しばかり破天荒なマリアとタラップ・ファミリ−との「めぐり合わせ」は、今もなお多くの人に感動を与え続けている。