読売新聞が面白い、といっても内容ではなく、その成り立ちが面白い。
1920年代、大正末期にはわずか4万部の売り上げがなかった読売新聞社、太平洋戦争の始まる1941年には160万部までにつまり約40倍まで売り上げを伸ばしている。
こうして後発の後発の読売が朝日・毎日と肩を並べるに至った理由は、社長になった正力松太郎と、大拡張にともなう有能な人材の補填であったといえる。
正力松太郎は、新聞人としては異例の経歴をもっている。
1911年に東京帝大を卒業した正力は、警視庁にはいっている。米騒動・東京市電ストの鎮圧、第一次共産党検挙などで辣腕を発揮して将来は総監の椅子も夢ではなかった。
ところが1923年の虎ノ門事件つまり難波大助による摂政宮(後の昭和天皇)の狙撃事件に現場で遭遇し、責任をとりに懲戒免職になっているのである。
その後、東京市長であった後藤新平により融資をうけて低迷していた読売新聞の経営権を握り、社内の要所要所にはかつて警視庁時代の部下を配している。
こういうと読売新聞がすっかり御用新聞になるやと思いきや、正力によって採用された人々は、昭和初期の左翼運動をかいくぐった者が非常に多かったのである。
つまり正力は警視庁時代にマークしていた人物が、能力とやる気さえあるならば社員として積極的に採用したのである。
経営拡大のためにセにハラ変えられぬ事情があったとはいえ、左翼・右翼関係なく人材を登用した正力という人物はよほどの傑物(ジャイアント)であったにちがいない、と思う。
ここで面白いのは、治安のプロである社長とかつてのオタズネモノが、処を変えてつまり「言論の府」で再び「めぐり合う」のである。
例えば、日本と同盟国であるドイツで反ナチ宣伝をおこなった新聞記者・鈴木東民を40歳の中途採用でしかも、それも外報部次長兼論説委員として入社させている。この鈴木の入社にはドイツ大使オット−からクレ−ムがついたほどなのだ。
正力は、それまで散々ナチの悪口を雑誌に書いてきた鈴木東民を庇いオット−の要望をはねつけたのである。そのくせ正力は英雄崇拝者でありヒットラ−の大ファンでもあったのだ。
周囲からどうして読売はアカが多いのかと尋ねられ、アカには新聞記者として有能なものが多いから赤い社員がたくさんできたと答えた。
 資料部次長の志賀重義や論説委員となる長文連(ちょうふみつら)なども名前が連ねている。
そして読売新聞は奇跡の成長をとげていく。
もちろん読売の成長は、戦争によって助成された面も多く、印刷工からトップ近くまで、彼らの反体制的エネルギーがしっかりと縛りつけられていたという面もある。
戦後、正力松太郎は戦争協力者としてGHQによりA級戦犯と指定され、社員のエネルギーが終戦直後に読売争議として噴出したことは周知の通りである。

カリフォルニアで1年間生活した時、労働争議というものを頻繁にみた。近所のクリ−ニング店で従業員が空き缶を叩きながら店の周囲を周り続けていた。ずっと何か叫んでいたのだが私にはよくわからなかった。ラスベガスではカジノの争議にも遭遇し、ホテル周辺の騒然とした雰囲気の中、観光客が通行できる状態ではなかった。
日本では企業別労働組合による労使一体化という土壌があるためにアメリカとの単純な比較はできないが、それにしても日本において民間企業の労働争議というものに出あったことがない。
しかし終戦直後、GHQによって労働組合の合法化が進められると、戦前の弾圧から堰をきったように労働争議が頻発した時代があったのだ。読売争議・東宝争議・東映争議などである。
 読売新聞の成長の過程をみながら、私はもうひとつの映画会社のことを思い起こした。
1930年代はじめ日本軍が侵攻した満州には満州映画協会というのが設立された。
満映にはもともと何らかの事情で日本にいられなくなった人々が多くいた。つまりワケアリの人々の寄せ集めといってもよいが、ワケアリといえば、満映理事の甘粕正彦大も大杉夫妻を殺害し軍法会議にかけられた後服役し日本にいられなくなった人物である。
また多くの左翼運動家も少なからずここに流れてきていたのである。
ソビエト軍が満州へ進攻し関東軍は壊滅していた中、満映の男子従業員へ緊急現地召集の礼状が来たが、満映理事の甘粕正彦は、それを全て独断で拒絶している。
さらに関東軍本部に乗り込み、従業員家族を避難させる列車を一本確保した。
更に銀行から満映の預金を引き出し、全従業員へ退職金を配り最後まで従業員に対する配慮をみせている。
ソ連軍が新京市内に突入し甘粕は自害したが、それをみとったのが、作家・赤川次郎の父である側近の赤川幸一であった。
 その後、旧満映日本人従業員は甘粕の用意した列車で帰国し、そして東映を作ったのである。
東映の社員に満州映画協会の出身者が多いのはそのためで、甘粕正彦という人物は、東映の恩人にあたるといってもよい。
李香蘭(山口淑子)が1944年の秋、苦しんだ果てに激怒されることを覚悟して満映を辞めたいと告げた際、甘粕は山口が李香蘭でいることの不自然さはよくわかると理解を示し、満州国や満映はどうなるかわからないが、山口の将来は長いので山口の思う道を進んでくださいとねぎらいの言葉で応えている。
ちなみに東大教授で社会学者であった見田宗介は甘粕の一族である。また赤川幸一は戦後、東映幹部になり東映の日本での地位確立に尽力している。
また正力に読売外報部に採用された鈴木東民は、戦後は戦車以外は何でもきたという読売争議の委員長となり、釜石市長にもなっている。
異色という言葉が似合いそうな人々の異例な「めぐり合わせ」である。