たまたま同じ教室で席を隣り合わせた二人が友でとなり終生のライバルとなる。互いの技能を高めあいそれぞれが世に知られた業績をあげる。そうした関係は稀なケ−スにちがいない。しかしもし「永遠のとなり」とえるような関係があるならばそれは二人の「めぐり合わせ」という他はない。

俳句の世界で、私は松山市出身の高濱虚子と河東碧梧桐と思い起こす。高浜虚子と河東碧梧桐とは伊予尋常中学で同級であり、高浜虚子は河東碧梧桐を介して正岡子規を知った。二人は以来子規門下の双璧とされたが子規没後、2人の行き方には著しい相違が生じた。
河東は時代の使命にうながされたように自由律俳句を唱え、高濱は河東らの新傾向に異をとなえ頑な芸術家ととしての自己の分限を守ろうとした。
二人はあたかも喧嘩独楽のように相親しみ相弾きつつまわり続けたのである。河東が子規が開拓した俳句革新の方法を横に横に掘り広げたのに対して、虚子はそれを深く深く掘り下げてホトトギス派の重鎮として重きをなしていく。
私は福岡に「永遠のとなり」といった交友を二例見出すことができる。 美術の世界の青木繁と坂本繁二郎、政治の世界の中野正剛と緒方竹虎である。
 福岡県久留米出身の画家の二人、青木茂と坂本繁二郎は、久留米藩(有馬家)の士族の家に生まれ、高等小学校で同級で、久留米在住の同じ小山正太郎の画塾不同舎の同門でもあった。
坂本が小学校時代に絵をはじめ早くから教師級友の注目を集めていたが、青木はその頃文学にふけっていた。坂本の方から青木に絵の手ほどきをしたのである。
ただ本格的な画家としての歩みは青木が先で、早熟な青木は親の反対をうけながらも東京にでて本格的な画家としての歩みをはじめたのである。
 二人は作品の芸術的傾向でも生き方でも対照的であった。馬を題材とした作品で知られる坂本に対して、青木は旧約聖書や古事記などに題材を求めた。青木の鮮烈な色彩に対して坂本の朦朧とした色彩の画風、青木の早熟で奔放不羈な生き方に対して坂本の律儀固陋とした晩成の生き方であった。
 青木が早くからその絢爛たる才を発揮していたころ、坂本は会社で漫画を描いていた。青木の存在が重く坂本にのしかかったのか、坂本は青木の死んだ年より創作をはじめている。
  ただ青木は東京勧業博覧会に出した「わだつみのいろこの宮」が、3当賞末席となりその屈辱と憤怒から北九州各地を貧窮のなかに漂泊する。そして1911年結核のため30歳の若さで福岡市の病院でなくなった。その骨は遺言どおりケシケシ山に埋められ、その作品は死後に注目をあつめた。
 一方、坂本は65才の時、画商・久我五千男にその絵を発見されるまで黙々と馬の絵を描き続けていた。久我の献身的な努力によって坂本のアトリエに眠っていた作品がようやく陽の目をみることになる。
坂本のアトリエは、久留米の石橋美術館に復元され、青木の骨が埋められた筑後のケシケシ山には記念碑が立っている。
   もうひとつの親友・畏友の関係は、政治の世界での中野正剛と緒方竹虎である。二人は小学校から高校まで同期で、大学は早稲田と一橋と異なるものの緒方は中野と同じ早稲田に転校し同じ朝日新聞に入社する。
   二人は規を一にして歩むものの、政治の世界にはいってからは、それぞれが異なる政治意識をもち袂を分かった。時に会うことがあっても政治の話をすることは避けたという。
   二人の性格は対照的で「修猷山脈」(西日本新聞社刊)の中に次のように書いてある。「天才的な中野の感性は一時も休まることなく、常に新しいものを求め続け、あらゆるものにキバをむき、そして果てる。その一生は自刃という悲劇的な最後を完結するための傷だらけのドラマだった。人の意を受け入れ、時を知り立場をはかった緒方の一生は、中野とは逆に平穏であった。肉親、知己の愛に恵まれ、後世に名を残し、眠るように大往生をとげた。」
    福岡市早良区の鳥飼神社近くには、太平洋戦争期に東方会を結成して東条英機内閣と対決し謎の自刃をとげた中野正剛の銅像がある。この銅像横の「中野正剛先生碑」の文字は、中野正剛の幼き頃からの親友・緒方竹虎の書によるものである。
緒方は、中野の葬儀委員長を務めるが東条内閣に睨まれていた中野の葬儀委員長を務めることは勇気のいることであった。政治に対する考え方は異なったが、二人の友情が失われていなかったことを示すものであろう。
  緒方は戦後、1955年の保守合同の立役者となるが、次期首相と目されながら1956年に亡くなった。緒方竹虎の義理の娘が国連難民高等弁務官の緒方貞子である。