人の係わり合いの面白さや出来事の繋がり方、言い換えると「めぐり合わせ」の面白さを教えてくれるのが、明治の私擬憲法・五日市憲法の制定や発見に関わった人々の動向である。 東京都と神奈川県にまたがる多摩地区で、自由と民権を打ち出した当時としては画期的な私擬憲法(憲法私案)がつくられていた。
   1978年、東京経済大学教授であった色川大吉氏らが、この地の古い地主の朽ちかけていた土蔵を調査し、箪笥や行季、長持などの中にぎっしりと詰まった古文書約一万点を発見した。
   古びた小さな風呂敷に包まれて眠っていた憲法草案は、見たところでは竹薮で見つかった「かぐや姫」ほどの輝きは放ってはいなかった。しかし起草から約90年を経た夏の日の発見がどんなに大きな輝きをもつものであったかは後に明らかになった。
  
   この地で一体どうしてこのように斬新な憲法案がつくられたのだろうか。 五日市は戦国時代から市が開かれる往来の街で江戸時代には林業が盛んになり、江戸後期には絹織物が生産されその製品は五日市、八王子を経由して全国ルートに乗った。そして五日市村の有力商人の中には卓越した金融力もつ広大な山林を所有する富農も発生した。
   この五日市の町の南の小峰峠を越えると現在の八王子市上川町、川口町となり幕末には八王子千人同心というものがつくられていた。千人同心は織物産地である五日市地方周辺の村々を警護する目的からつくられたものであり、新撰組の近藤勇もこの地で生まれたという剣術の地域でもあった。 またこの地域は多摩川によって川崎方面と直接結ばれており、文明開化の根源地の開港場横浜は案外手近な場所であったのである。その証拠に五日市村の近辺の地主の屋敷から蒸気船図や安政条約の全文が筆写されたものが発見されている。
   1873年頃に五日市の旧村16カ所には、五日市勧能学舎ほか五学舎が設置されている。知識を世界に求めるというこうした学舎の教員は、新知識の学習熱に答えるに足る学識者が渇望された。そして教員は在地の人より広く仙台藩士・会津藩士など外部から招かれたのである。
   勧能学舎は1873年、五日市村、深沢村、入野村、館谷村4か村を学区とする公立学校として設立され、教員には、仙台藩出身の永沼織之丞(初代校長)や千葉卓三郎らがおり、後に自由民権運動で活躍する深沢権八や内山末太郎らも創立当初の生徒であった。
   実はこの学校にある異色の人物が一時教員として働いていた。大分県出身の利光鶴松で、後に弁護士となり小田急電鉄を創設する人物である。実は五日市憲法が山林地主の土蔵からみつかったのもこの人物の手記がきっかけとなったのである。
    小田急電鉄初代社長・利光鶴松の手記は1885年頃の五日市における民権運動の雰囲気を伝えており、山林地主の深沢家がこの地方の運動の一大拠点であり、法律書など東京で出版される新刊書をすべて買い集め、私設図書館として利光ら向学心のあつい若者に開放していたという記述が含まれていた。
   1880年3月、第一回国会期成同盟が結成され、この全国的熱気が五日市地域にも波及し、東京の嚶鳴社から弁士を招いて演説会を開く前後から、活発な学習運動が展開されており、この地方の元々の名主・深沢権八親子は三町十四ヶ村から40名近いい会員を集め学習会、討論会、研究会などを行っていた。深沢が指導的立場にあった民権結社「学芸講演会」こそ、五日市地域の自由民権運動の中心的な存在であったのだ。
   深沢家の沿革は詳らかではないが、江戸中期に名主役に就任し幕末には「同心株」を譲り受け江戸幕府の御家人である八王子千人同心に就き村内鎮守社の神主をも務めていたという。
   ところで「明治百年祭」のキャンペーンがはなばなしく行なわれていた1968年に、東京経済大学色川大吉研究室の手で深沢家土蔵の調査がおこなわれ、五日市憲法、嚶鳴社憲法、立志社規則、その他数多くの民権運動関係史料、書籍などが発見された。三多摩を中心にした民権運動は、この史料発見によって、今までの研究の空白部分をかなり埋めることになった。
   ところで色川大吉氏はどのような経過で三多摩地区の自由民権運動の研究をされるようになったのだろうか。それは文学者の北村透谷の研究がきっかけとなっている。 文学者北村透谷は神奈川県小田原で没落士族の家の生まれであるが、五日市南部に位置する上川口村に住んだことがありこの地を「第二の故郷」と呼んで愛した。この地は1884年の不況の下、困民党事件が勃発した村でもあった。
   北村も自由民権運動に参加するが、運動は次第に閉塞してゆく時期であり、1885年の大阪事件にさいしては同志から活動資金を得るため強盗をするという計画を打ち明けられて、絶望して以後運動を離れる。
     実は、先述した勧能学舎の教員であった利光鶴松も勧能学舎の同僚3人から、資金調達のための非常手段(強盗)に参加を求められたこともあったらしい。
   実は深沢権八の63項目にわたる手書きの討論題集が残されており、そこには次のようなことが記されていた。「憲法は国民がきめるのか、国王がきめるのか、議会は一院制がいいか、二院制がいいか、女帝をたてることはどうか、皇居は東京に置くべきか、田舎に置くべきか、衆議院議員に給料を払うべきか、払うと悪いことをするか、 死刑は廃止すべきか否か、人民に武器を与えてもよいか」とある。
   この手記は、「学芸講演会」での討論の内容を良く伝える資料となっており、そしてできあがった五日市憲法は体裁上は君主主権を認めながら、運用面で君権と民権と競合した場合には民権にくみするという憲法であった。自由権・平等権の規定の規定があり、その後発生した華族制度 を見抜いた警世の条文もある。 教育権と義務教育が規定されて、国家による教育内容の画一 統制は明らかに否定され、教育権の所在は教授者と親権者にあることが明記されている。
   中央集権に懸命であった明治政府には全く考えられない地方自治の条文がある。アメリカの州と連邦政府との関係に近く 地方の 自治は国会の権限をも凌駕するというものや、国事犯、政治犯を死刑にしないという権力批判者に対する精一杯の保護規定も設けている。
   明治政府は1881年10月、自ら進んで10年後の国会開設を約して、自由民権運動の気勢をそらした。
   同年10月に予定されていた第三回の国会期成同盟大会はこのため混乱し、自由党結成大会に切り替わり、民権各社がせっかく用意した憲法草案の審議は全くなされなかったのは残念なことではあった。しかし、明治初期の草莽の中にこうした輝ける私擬案が眠っていた事実は、この当時の民衆の力の成長を知る上での貴重な資料となっている。