1945年6月、鳥栖小学校で音楽の上野歌子教諭は、明日出撃するという二人の青年と出会う。彼らは音楽学校ピアノ科の学生であり出撃の前に思う存分にピアノを弾きたいと告げる。
当時この鳥栖小学校にはドイツ製フッペルという名器のグランドピアノがあった。グランドピアノがあると聞いて、2人の青年は、長崎本線の線路を三田川の目達原(めたばる)飛行場から、3時間以上の時間をかけて学校まで歩いてきたのである。
上野教諭は二人を音楽室に案内し大好きなベートーベンの「月光」の楽譜を持ってきた。それは、運命の「めぐり合わせ」であるかのようであった。彼の専攻はベートーベンだったからである。
 一人の青年が「月光」を弾き、もう1人の青年が楽譜めくった。
演奏が終わり2人の青年が音楽室を去ろうとしたとき、上野教諭は、この短い時間を共有した証を残してあげなければと思い、白いゆりの花を胸一杯に抱きかかえて来て2人に渡した。二人は何度も振り返りながら長崎本線の線路を走って戻っていったという。
その約2ヵ月後戦争は終わり、上野教諭は、戦争後、2人の青年との再会を願われたがついに二人の消息は不明であった。しばらくして上野教諭は鹿児島の知覧平和記念館を訪れ、戦没者の写真によりピアノをひいた方の青年の死を知る。
 しかし、元新聞記者やテレビ局などの協力により楽譜をめくっていた方の青年の生存を知り45年の時を経で再会することができた。
 その青年は出撃後エンジン不調のために帰還され生存されていたが、生き残ったことに負い目を感じ自分の体験を家族にも秘匿しておられたことがわかった。
その後上野歌子教諭は2人の青年との出会いの出来事を通じ戦争の無残さや哀しさを伝えられてきた。しかし1992年講演先で突然亡くなられた。
 その後音楽学校に学んだ若き学徒の話は映画化され「月光の夏」という映画で多くの人々に感動を与えた。フッペルのピアノは鳥栖駅前のサンメッセ鳥栖に保存され、今もなお花束が後を断たない。
また鳥栖文化会館では現在でもこの出来事を記念して毎年フッペル平和コンサートがひらかれている。
上野教諭と音楽学校学徒との「めぐり合わせ」は、語り部を失ってもなお色あせず引き継がれている。

作家である故水上勉氏の長男の窪島誠一郎氏は、美術学校の生徒で戦争に行った夭折の画家の絵画を求めて全国の遺族を尋ねておられる。
窪島氏自身は中学時代に東京都知事賞などを取られ絵への嗜好をもたれていたが、戦争に行った夭折の画学生の絵を収集しようとした直接のきっかけは、「祈りの画集」という故郷である福岡県糸島郡志摩町にアトリエを持つ野見山暁治という画家が集めた若き戦没者の絵を見たことであった。
野見山暁夫は満州に出征し、多くの美学校の学友達が命を落としたことを思い彼らが最後に命を燃焼させた絵を集め画集にしたもの「祈りの画集」であった。
  窪島氏は戦争中に実の両親と生き別れ靴屋を経営する養父母に育てられてきたが、うすうす自分の親が本当の親でないことを確信するようになっていく。 窪島氏の中にいいようがなお空白感が広がる。高校時代の自分について次のようなことを書いている。
「私は自分の空洞が怖かったのだと思う。怖かったので自分を粉飾しごまかすことに没頭した。自分を粉飾しごまかすつくりごととは、私にとって文芸であり、演劇であり、絵を書くことだった。私はその頃から己れ自身の実体をつくりあげようと必死だったのではないかと思う。自分をたくみに絵解きしてくれる言葉や行為が欲しかったのだ。」
  高校を卒業すると色々な仕事をし放送局勤めなどもやり、その後酒場や喫茶店の経営をし軌道に乗っていった。貧乏から何とか抜け出そうと必死だったが、自分が金儲けに専心していたときに、こうした画集に出会い、命を戦地で落とした学徒達の絵を通じて自分を見つめ直していく。
私は窪島氏のこうした歩みを見ると一人の人物を思いだす。松本清張が「或る小倉日記伝」で描いた青年である。欠落した森鴎外の小倉在任時代の日記を聞き取りで埋めていこうとする田上耕作という青年の話である。
この実話に基づいた小説の中で耕作はあたかも自分の空白を埋めるかのように日記の欠落を探し求めるのである。

 窪島氏は自分の空白を埋める為に作り事ではない「リアル」なものが必要だったのかもしれない。しかし技術的に未熟な若い学徒の絵にそれほどの価値があるのだろうか。
ここで最も重要なことは、彼らの作品が風景にせよ人物にせよ「遺作」として描かれているということである。
つまり戦争が彼らの絵に価値を与えたのだ。
そこに純粋な命の燃焼があり、彼らは最後にこの絵をもって自分の生の「証」としようとしたに違いないのだ。
窪島氏は野見山氏との対話の中でそのことに気づかされていく。そして窪島氏は陽を見ることのなかった遺作を求め全国を歩み遺族と会い遺族の話を聞いてこられた。 そうして蒐集された絵が長野県上田市に窪島氏が建てられた美術館「無言館」に展示されている。
私もいつか行ってみたいと思うこの無言館は、涙なくして去ることはできないと聞く。
窪島氏自身に出征体験はないものの、窪島氏と実の親(水上勉氏)を引き裂いたのも畢竟戦争であり、「無言館」の設立を遺族から感謝されることに今も戸惑いを感じるらしい。
結局、窪島氏と夭折した画学生の絵との「めぐり合わせ」は、御自身を「絵解き」する機縁を与えたのではないかと私は思っている。