田中聡子は1942年2月、長崎県佐世保で生まれる。 熊本・嘉島中学2年の時、背泳ぎで熊本県・中学新記録を作り注目される。 当時、福岡県の瀬高に九州では数少ない50メ−トルプ−ルがあり、毎年、中学・高校合同での合宿練習があり、九州の拠点になっていた。
その合宿で中学生の田中聡子と八幡製鉄水泳部コ−チ・黒佐年明は運命的な出会いをする。 黒佐は聡子を見た時、これは日本一、いや世界一になると直感でわかったという。 聡子の泳ぎは荒っぽいが、スケ−ルは大きく、こぼれるような天分に恵まれていた。
1958年田中聡子は、当時全国的に有名だった筑紫女学園に入学し、黒佐の指導をうけることになった。
黒佐は週2回、八幡から福岡の筑女に通った。 こうして田中聡子と黒佐年明の果てしなく続く記録への挑戦が始まった。 黒佐は泳ぎの基礎から教えた。水中メガネでもぐり、水中動作を観察して正しい泳ぎ方に直す。 一つ直すたびに、面白いほど上達し、タイムを縮めた。
ところで田中は中学時代「水泳しかできん」といわれるのがいやで勉強もよくでき学年でトップクラスだったという。
特に理数系が得意だった。理数系に強いということは、論理的、合理的なものの考え方ができるということであり、水泳にも非常にプラスになった。
田中は黒佐の説明に対する理解は早く、一度納得すると一の小ごとも要しなかったという。 しかし田中は、筋力は不思議なほど弱く、腕立ては2回でつぶれた。 アレルギ−性鼻炎で胃も慢性的に弱かった。
ただファイト、泳ぎのカン、そして水にあった体をしていた。
何よりも彼女のすごさは、環境に動じない芯の強さと勝負度胸であった。 しかしある時期ビタミン不足から脚気になり、記録がみるみる落ちていった。 この間、黒佐は田中がくじけそうになると、八幡製鉄所に連れて行き、マラソンの君原の練習風景をみせた。
田中はベッドの上でのイメ−ジ・トレ−ニングにはげみ、頭の中で秒針を動かし続けた。 脚気の治療の間もランニングは欠かさず、「女の子にあんなにまでも」と眉をひそめる教師達もいた。
黒佐は田中にどんなに厳しい忠告与えても最後にいうことは、「おまえならできる」という言葉だった。
田中聡子は黒佐コ−チと危機を乗り越えていった。 1959年7月の神宮プ−ルでの200メ−トル背泳ぎで、世界新記録を樹立した。
日本の女子水泳選手でそれまで世界記録を作ったのは前畑秀子だけだであり16年ぶりの快挙だった。
そしてロ−マ・オリンピック出場権を得る。 しかしオリンピックには当時200メ−トル背泳ぎの種目はなく、100メ−トル背泳ぎで勝負をかけなくてはならなかった。 結果は銅メダルであったが本人は喜び、黒佐も「よくぞ耐えた3年間,私は満足」と新聞に寄せている。
ロ−マから帰国した彼女は、これで選手生活に別れを告げるつもりでいた。 筑紫女学園の校長は、聡子を校長室に呼び、宮本武蔵の話をした。 田中はしばらく剣を捨ててからの武蔵を描いた「それからの武蔵」(小山勝清著)をむさぼるように読んだという。

しかし4年後の東京オリンピックをひかえていた水泳界はそんな彼女を手放すことはなかった。
田中は進学かオリンピックか迷った。そしてオリンピックを選んだ。 そして黒佐がいる八幡製鉄所に入社し,再び、黒佐コ−チ、田中聡子の2人3脚が始まった。 1964年東京オリンピックの舞台は当時世界最大の規模をもつ屋内代々木オリンピック・プ−ルであった。
決勝で聡子は自己ベストのタイムをだしたが4位とメダルには手は届かなかった。 1万千人の観客は惜しみない拍手を田中の背中に送った。 負けたとはいえ「あの場所で自分の最高の泳ぎができた」とさばさばした気持だったという。 ただ悲しくもないのに涙がとめどもなく流れたという。

東京オリンピックが終わって2年後、1967年5月、田中聡子は当時、八幡製鉄所のバレ−ボ−ルの選手だった竹宇治清高さんと結婚し三女の母親となった。
小学校1年生になった長女が、激しい喘息の発作を起こして入院した。 田中聡子は長女のぜんそくを通して福岡南病院の西間医師と出会い、子供のぜんそく治療のための水泳教室とめぐり合った。
1977年、福岡市で全国でもほとんど例がない、ぜんそく児水泳教室(風の子会)がスタ−トする。
田中聡子が水泳の指導をすることになり、彼女のネ−ムバリュ−が大いに役に立つことになる。
1984年3月、建設費1億円をかけて南福岡病院専用(福岡市南区屋形原)のプ−ルが完成した。
彼女ほどの実績があれば水泳コ−チとして再び記録に挑戦することもできたはずだ。
しか し田中聡子は、自分の記録挑戦のために多くの犠牲がはらわれていたことを知っていた。
社会への恩返しのために喘息児のための水泳教室に生きることを選んだ。
娘の病を通じて出会った水泳教室は、「それからの田中聡子」にとってかけがえのない「めぐり合わせ」だったのかもしれない。