サンフランシスコの日本人


ビクトリア調の家並みと急勾配の坂、海に浮かぶアルカトラズ島、ケーブルカーに飛び乗る人々の姿、いずれもサンフランシスコを象る風景である。この街には絵になる風景がいくもある。当然に多くの映画の舞台を提供した。
ゴールデンゲートブリッジの赤と青のコントラスト、映画「卒業」のワンシ−んを飾ったベイブッリジ、花々に飾られたロンバート・ストリートの曲がりくねった道、白鳥がおよぐ美術館、堅固なるシヴィック・センターの外観。
私がこの地にしばらく住んで一番「アメリカ」を感じたのがエンバカデロセンター内のハイアット・リージェンシー・ホテルの吹き抜けのビルディングであった。たまたま迷いこんたビルのレストランから見上げた時の壮観さに感動。
後にこの建物が映画「タワーリング・インフェルノ」の撮影に使用されたと聞いて映画に登場した宙吊りになった総ガラスばりのエレベーターのシーンを思い浮かべたのである。
ところでエンバカデロは、サンフランシスコ名物のケーブル・カーの終点となっている。運転手が回転台で一人車体を方向転換させる姿はどこかアメリカの開拓者を思い起こさせる。
そしてフィッシャーマンズ・ワーフの漁師達の腕に彫られた碇のタトゥーが脳裏をかすめた。そうだ開拓者達は黄金卿をもとめてのこの地を訪れそして西部劇よろしく殺戮をおこないこの美しい町を築いたのだ。
サンフランシスコを黄金と鯨を求めてやってきた人々の町とよぶにはこの町の風情はあまりに多くの詩情を湛えている。
明治時代以来この町を訪れた日本人は意外に多い。異国に夢を抱いたもの、傷つき逃れ果てた先、捲土重来をはかった者など。彼らの滞在がたとえ短いものであったにせよ、ここで彼らを照らしたやわらかな光や涼やかな風、そしてすべての罪も企をみも覆い隠すかと思えるほどの深い霧などが彼らのその後の行く手に幾ばくかの光彩をなげかけたに違いない。
高橋是清は1867年にアメリカにわたったが本人も気づかぬままの奴隷契約が結ばれていた。サンフランシスコで自分への粗悪な扱いに疑問をもちそれを知ってあわてて日本に逃げ帰っている。
福岡出身の川上一座はサンフランシスコ滞在は3ヶ月に及んだ。一座は興行の世話人である櫛引が悪徳弁護士に騙され興行収入を持ち逃げされるという悲運にめぐりあった。
一座は困窮のあまりシカゴにようやくたどり着くが、一座19人が泊まる場所もなく場末のペンションで他の団員が訪問客を装いベッドに隠れるというものであった。シカゴの劇場に公演を認めてもらったものの客が入るあてもなく、公演前日に街頭で武者行列をして人々の度肝を奪うという奇策が大当たりし、翌日のライラック座は満員となって急場を切り抜けることができた。
一座はサンフランシスコでの困窮の末、姪のツルを日本画家のアメリカ在住の青木年雄へ養女へ出した。一座にとって悲しいことではあったが、この時ツルは後に日本初のハリウッド男優・早川雪洲の妻となる「めぐりあわせ」の星の下にいたのである。
 ところでサンフランシスコに渡って起業のきっかけを掴んだのが森永太一郎である。森永は1865年佐賀県伊万里の陶磁器問屋に生まれた。幼くして父を失い母とも離別した。親類の間を孤児として転々としたが、漢学者の家に丁稚奉公し、傍ら漢学を学んだ。
しかし謝礼の米が納められず三度の食事にも苦労したという。
13歳の春、伯父の家に引き取られ、50銭の資本で八百屋の行商をやりのちに陶磁器の番頭となり横浜にいった。ところが借金地獄に苦しみ1888年、23歳で単身アメリカに渡る。知人もなく英語もできない森永が商売で成功するわけはない。
たちまちホームレス同様の生活を体験することになった。ある時雑役夫として働いた頃、酒をあおるように公園のベンチに寝ころがったところそこにキャラメルの包み紙が目にとびこんできたというめぐり合わせ。
これだと思いさっそく菓子工場を探してかけずり回るが日本人を雇ってくれる工場はなく、農園やホテル邸宅などを転々としているうちついにキャンディー工場で働くことができるようになった。
1899年、35歳になった森永はすでに洋菓子の製法を身につけ日本に帰った。その年東京赤坂に念願の「森永西洋菓子製造所」を起こしたのである。後にエンゼルマ−クの森永として親しまれる森永製菓誕生の時であった。
森永太一郎は1937年73歳で波乱の人生を閉じた。彼の銅像は伊万里神社の境内にあり公園に来る子供たちをやさしく見守っている。
またサンフランシスコは日本における労働運動の黎明の場を提供している。1886年にサンフランシスコに17歳で渡り印刷所を経営する高野房太郎が在サンフランシスコの日本人労働者たちに働きかけ「加州日本人靴工同盟会」を結成しこれが1897年に東京で結成される「労働組合期成会」の母体となったといわれている。
明治の社会主義者の幸徳秋水は1905年11月14日、伊予丸でサンフランシスコに渡っている。出獄後の健康回復のためと同じ高知出身で印刷所を経営する岡繁樹らが設立した平民社桑港支部を日本の革命運動の震源地とするためであった。
 渡米中の1906年サンフランシスコ地震に遭遇し一時的に私有財産や貨幣価値が無効となった事態に接して平等な配給社会を感じたという。地震に遭遇したのもこの人のめぐり合わせか。