サンフランシスコ・ランバート・ストリートの丘は、アメリカでも指折りの高級住宅街である。
この坂を上る時に家の前に古い調度や衣類・家具などを並べて売っているのをよく見かけた。
アメリカ人のリサイクル意識の高さに感心したが、日本人には世間体というものがあり、こういうガレージ・セールはあまりはやらないだろうと思った。
私は今このことを別の観点から思い出している。
日本人には事物に霊が宿るというアニミズムの意識があるのだが、人が長年使ったものには使った人の霊が宿るという意識がどこかにあるではないかと思う。(亡くなった人の茶碗とか子供のランドセルとかいつまでも捨てずにとっておいたりするケ−スなどを思い起こす)
日本でアメリカのようにガレージセールが浸透しないのは、ある部分そうした意識が働いているからではないかと今にして思うのである。

こうした意識は日本人の基層にある森の文化=アイヌの意識と重なりあっている。
アイヌは「場所」というところで獲物の交換を行なっていた。その物の交換に際し、物にはそれを獲得したり生産したりした人々の魂が宿り、物の交換とは極論すれば魂の「交歓」なのだ。
 現代のように金を媒介とした抽象的な価値に基づく交換ではなく、一人一人が交換によって世界に繋がっていくというような性格のものなのだ。
現代のお中元やお歳暮のやり取りにそうした意識の残滓があるのかも知れないとも思う。
 江戸時代より北海道に住み始めた和人によりアイヌ人が騙され収奪されたという話がよく聞くが、すでに商品経済に巻き込まれていた和商人の経済観念とアイヌとはそもそも「交換」の意味が異なっていたのではないだろうか。
 アイヌにはイヨマンテという祭りがある。言葉としては「イ(ものを)」+「オマンテ(送る)」という意味であり、単にイオマンテという場合、熊のイオマンテを指すことが多い。
イヨマンテの世界観では、天上で色々な生き物が人間と同じように着物を着て、家を建て、神語を語り、生息している。そして、下界へ遊びに来る時だけ熊、狐、鹿、鮭など、それぞれあのような変装をして人間界へ来るのだという。
 そして人間へその装束(肉のこと)をみやげに授けて、霊だけ天の国へ帰るのである。つまりイヨマンテとは、熊の霊を天に送り返す祭りであるらしい。ここに神(カム)と人との交歓がある。
そして霊をおくるのは、けしてクマや様々な動物だけではなく、植物、また「古くなったりした道具」などに対しても同様だという。(そういえば今でも針供養といった行事が各地で行われている)
  とにかく人も動物も、時には物でさえも対等であるという意識がそこにあるのだ。

ところで我々とは異なる生命観が病める人を癒し再生の力を与えるケ−スがある。アイヌと同じく日本人の基層文化を構成する文化にオキナワ文化がある。
児童文学者として知られる灰谷健次郎氏は、33歳の時長兄が自殺をする。その死に対して灰谷氏はある事情から自責の念にかられる。
翌年には母つるが死去し人間としての生き方に迷いを持ちはじめる。灰谷氏にとって、長兄の自死は重くのしかかり、ヨーロッパ、地中海、中近東、インドを放浪するが挫折感はさらに強くなるばかりだった。
そして1972年、38歳の時、兄の自死から立ち直れず学校を辞め17年間の教師生活にピリオドをうつ。
そして退職後は東南アジアや沖縄に行く。
沖縄を訪れパイン工場に行った時一人の男と出あう。その男は灰谷氏に船を二度沈め妻と娘を殺してしまったと語った。
その話を聞いていた老女が、自分を責めて生きても死んだ人は喜ばんと言い、その彼女も夫をマラリアで殺したと悲惨きわまりない戦争の体験を話した。
さらに「わたしが死んだらおじいさんも死んでしまうさ。わたしは死ねないさ」と告げた。
それに周りにいた皆が肯いたのだという。
灰谷氏はこの時衝撃を受ける。氏はこの時に生命観そのものを根底的に変えられたとも言っている。
命は自分ひとりのものだと思っていた灰谷氏にとって新しい生命観を教えられたのだ。
この人達の中にもう一つの生が生きている、つまりこの人達の中に死者が生きているという発見をしたのだ。
そして沖縄の人達が子供に似ていることに気付く。重い人生を背負っている子どもほど楽天的だったこと、苦しい人生を歩んでいる子供ほど優しさに満ちていたこと、などを思った。

灰谷氏はその後「兎の目」「太陽の子」などの児童文学の名作を発表していく。
1980年、46歳の時、灰谷氏は淡路島に移り住み、自給自足の生活を始める。各三畝少々の畑と田から、米、麦、豆類、芋類と蔬菜を自然農法で農薬を使わずに作る。
 灰谷氏が沖縄で出会った新しい生命観との「めぐり合わせ」に、氏の病める心を回復させる力があったのだ。