歴史上に良く知られた「再会」は、幼い頃に生き別れとなった源頼朝と源義経の富士川での再会が有名であるが、私には1977年新聞にのっていた作家・水上勉とご長男・窪島誠一郎の再会のことが強く印象に残っている。
実の父子でありながら生き別れ35年ぶりに劇的な再会を果たした奇縁の父子である。
 作家水上勉は福井県の大工の家に生まれ5人兄弟の次男として育ち、9歳の時京都の禅宗に小僧として修行に出されるが、あまりの厳しさに出奔した。その後一時連れ戻されるが再び禅寺を出たのち様々な職業を遍歴しながら小説を書く。経営していた会社の倒産、数回にわたる結婚と離婚など、家庭的には恵まれないことが多かった。
1941年に水上氏は同棲していた女性との間に長男が生れるが、この頃結核にかかり血をはきながらも酒ばかり飲み自身の生活さえ維持するのがやっとであった。アパ−トの隣人が水上氏に同情しまた結核が子供に感染することを心配し、一時長男を預かり養子先を探したのであった。
この時水上勉には養子先を知らされていなかった。その後、明大前付近は1945年4月の大空襲で焼け野原となり、長男は死んだものと思われていた。
しかし長男はそのとき養父母と石巻市に疎開しており空襲を無事に逃れていた。戦後、養父母と明大前に戻って靴修理屋を再開する。しかし自分が親と似ていないことや血液型などにより養父母が実の親ではないと確信する。
そのころ、養父母は明大和泉校舎の構内でクツ修理をしていたが、生活は苦しく生きるのに必死で息子の心の変化を知る余裕もなかった。
誠一郎氏は高校をでると、深夜喫茶のボーイ、ホテル従纂員、店員、珠算学校の手伝いなどをしながら、家計を助けるとともに金をためた。結婚後、それをもとに喫茶店や小劇場(キド・アイラック館)・居酒屋を開き成功し大小5軒の店を構える少壮実業家となる。さらに銀座に好きな絵を集めて画廊を開いた。
自伝によると「高校時代から口八丁手八丁の男だった。深夜酒場のマスタ−は天職だったかもしれない。あれほど好きだった文学にはすぐに見切りをつけた。」と書いている。
窪島氏は生活の安定と共に本格的に実の両親を捜し始める。
そして養父母である窪島夫婦が戦前、世田谷の明大前でクツ修理屋をやり二階を下宿にしていたこと、そこに山下義正という学生がいて1943年秋、孤児をもらったといって二歳の赤ちやんを子供を欲しがっていた窪島夫妻のところに連れてきたこと、さらにかつて山下義正が住むアパ−トの隣の部屋にいて子供を預けた人物が、当時すでに流行作家としての名が知られていた水上勉氏であることをつき止めるのである。

 終戦後間もない頃、誠一郎氏の父親である作家の水上勉は本が売れず妻の稼ぎに頼っていたが、妻は子供を置いて勤め先のダンスホールで知り合った男性と駆け落ちしてしまう。
1946年ごろ作家の宇野浩二を知り文学の師と仰ぐようになり、1947年に刊行された「フライパンの歌」が一躍ベストセラーとなるが、その後しばらくは生活に追われまた体調も思わしくなく文学活動からは遠ざかった。
しかし1959年「霧と影」で執筆を再開し、1961年「雁の寺」で直木賞を受賞し、「飢餓海峡」「越前竹人形」、「五番町夕霧楼」、などの小説を相次いで発表し華々しい作家生活が始まったのである。
窪島氏は父が作家の水上勉氏であることを知った時について次のように言っている。 「それは天地が裂け、雷鳴が轟き、驚天動地でしたよ。人前ではかっこつけていましたが出会ったときには涙がでました。」
水上勉氏は、2004年9月8日肺炎の為、長野県東御市で亡くなる。享年85歳であった。
また窪島誠一郎氏も作家として父への思いなどを書いておられる。
窪島氏は、画家で自らも出征経験がありまた美術学校の仲間を戦争で失った画家野見山暁治さんとともに日本各地の戦没画学生のご遺族のもとを探し訪ね遺作を蒐め平成9年5月2日に「無言館」を開館した。
自身が館長を務める長野県上田市の無言館には、志半ばで戦場に散った画学生たちの残した絵画や作品、イーゼルなどの愛用品を収蔵、展示している。

水上・窪島父子の「めぐり合わせ」とは、息子が明大前から引っ越して次に住んだ場所が作家・水上氏の自宅と目と鼻の先であり窪島氏の娘が水上氏の敷地に迷い込んだこともある。また、息子の嫁は水上氏の代表作・北海道積丹半島出身の女性であったことなど色々あるが、何よりも息子・窪島誠一郎氏が水上作品の愛読者でもあったということであろう。
つまり本当の父親の名を知ったとき窪島氏の本棚には多くの水上作品が並んでいたのだ。