佐賀藩精錬方のリ−ダ−


第二次世界大戦で連合軍とドイツとの戦いを描いたアメリカのTV番組「ジェリコ」はク−ルでホットな戦争映画であった。アメリカ人のリ−ダ−の下、連合国各国から詐欺のプロ、盗みのプロ、殺しのプロ、そして変装のプロが集められてきて難攻不落のミッッションに挑むという物語である。ちなみに「ジェリコ」は聖書に記載されている城砦で、古代イスラエル人がカナンの地に入る時に陥落させた難攻不落の城「エリコ」の城壁に由来するものである。
 ところで佐賀藩で、反射炉の建設、蒸気船・蒸気車の雛型の製作などが時代に先行して行なわれている。
佐賀藩は、長崎に近く他藩に先駆け様々な知識や技術が入ってきたとは思うのであるが、それにしても相当強力なテクノラート集団がいたに違いない。
そして佐賀藩のテクノクラート集団である「精錬方」のメンバ−はほとんど他藩からの寄せ集めでその人材招聘の中心的役割を果たしたのが佐野常民という人物であった。
佐野常民はこうして佐賀藩の技術水準を日本のトップクラスに引きげた。また日本における赤十字社の前身である博愛社の創設や伊能忠敬の再評価、明治における美術団体「竜池会」のまとめ役など多方面にその功績を残しており、佐賀が生んだ巨人とよぶにふさわしい人物であった。
 佐賀藩には「精錬方」の以前から「火術方」の七賢人と呼ばれた集団があった。火術方は、大砲製造の目的の元に、大まかな洋書の図面と解説のみを手がかりにして日本で最初の反射炉を建設した。現在最も有名な伊豆韮山の反射炉に3年も先行しているのである。
 他方1852年に創設された「精錬方」は今でいう化学実験工場のようなものであり蘭書をたよりに化学実験や、汽車や汽船の雛型の製作とその実用化の研究を行なっていた。
 佐野は京都時習堂で学んだ折に出会った京都の中村奇輔、但馬の石黒寛次や、東芝の前身をつくった久留米の田中儀右衛門などをスカウトし藩主鍋島直正に推挙したのである。
そして全国に先駆け、蒸気機関車、蒸気船の雛形が佐賀城下で走行実験が行われたのである。こうした雛形は現在、佐賀県立博物館に展示してある。
 佐野は1822年、現在の地名でいう佐賀郡川副町早江津で生まれており生誕地の近くには筑後川の支流である早江津川が有明海に注いでいる。
 佐野はもともと外科医になるべく佐賀の藩校・弘道館に学び、藩の人材育成の方針の下、京都の蘭学者・広瀬元恭が教える時習堂、そして大坂の適塾に学んだ。適塾には緒方洪庵のもと、天下の俊英が集まっていたが、佐野は入門の翌年には塾頭になっており、洪庵より蘭書に基づく「医の倫理」を学んでいる。また佐賀にもどり同じ佐賀出身の伊東玄朴の象先堂で学んでいる。
 1865年、フランス政府が江戸幕府にパリ万国博覧会への参加をもとめてきた。薩摩藩は事前に参加決定をしていたが、幕府の呼びかけに応えて参加したのは佐賀藩のみであった。  これは当時の藩主である鍋島直正の進取の気性が大きな原因であるが、このパリ万国博覧会参加の実質的なリーダーを務めたのが佐野常民である。このことは佐賀藩ばかりか日本全体にとっても大きな意味をもつものであった。
 パリの万国博覧会を参観した佐野の目をひいたものが「赤十字」の展示館であった。国際組織である赤十字は、スイスのアンリ・デュナンの提唱によって1863年に創設されたばかりであった。赤十字のパビリオンには担架や救護車などが展示してあり、もともと外科医を目指していた佐野は、その目新しい救護器機に強い関心をよせたのである。
 そして佐野は1877年に勃発した西南戦争の折、熊本・田原坂の激戦で多くの死傷者が山野に放置されているという事実を報道で知り、パリ博覧会でみた赤十字の精神を博愛社として日本で実現すべきだと考えた。
賊軍を救護するという考え方には周囲の抵抗があり、佐野の考えは容易に受け入れれれなかったが、九州征討軍の総督・有栖川宮仁に趣意書を提出してようやく許可されたのである。
デュナンにとってのソルフェリーノは佐野にとっての田原坂であった。