筑紫美主子(本名;古賀梅子)は、1925年北海道旭川で産まれた。
父親は亡命白系ロシア人、母親は日本人女性であった。母親は、父親との別離の後、人目をはばかり娘を「捨て子」ということにして佐賀に住む伯父夫妻に預け、そのまま姿を消した。 梅子と命名された筑紫美主子は、両親の顔も知らぬまま、養父母のもとで育てられる。
青い目をした赤い髪の女の子。周囲の好奇の目にさらされつづけた。 小学校6年生の頃、学校から佐世保に戦艦「陸奥」を見に行くが、筑紫さんには外国人の血が流れているという理由で、立ち入りを拒否された苦い思い出もある。
筑紫さん12才の時、養父が知人の保証人になったため差し押えられ破産し、家からがおいだされた。
農具小屋を立て替えて生活をはじめるが、事業に失敗して台湾から帰国した養父の弟家族も加わり、2家族9人が狭い農具小屋で生活することになった。 この頃、家は極度に貧しく、子供達は暴れる、病人は苦しむで、まさに修羅場のような生活あったという。
ある時、筑紫さんが口に入れた漬物を、男の子が口をこじあけて奪い取ったこともあった。 彼女は食べ物を二度噛むことができなくなったという。
1935年、働きづくめの養母を失う。 筑紫さんは養父母のもとで踊りを習っていたが、亡くなった母親の願いをうけて14歳で踊りの師匠となる。
1937年、日華事変が起こり、戦火は激しさを加えていった。 戦争中は誰よりも「日本のために」という願いが強かったのに、「青い目」の筑紫さんはスパイ扱いされ尾行がついたという。
筑紫さんは1940年、旅芝居劇団の古賀儀一と結婚した。 周囲は年も離れ生活が不安定な儀一との結婚には反対であしたが、筑紫さんは儀一氏が彼女をけして「特別なもの」として見なかったことに安らぎを覚えた。
そのうち皇軍慰問団の一員として銃弾飛び交う最前線へと送り込まれることになった。 映画スタ−や有名歌手は高級将校などのいる比較的安全なところに送りだされたが、筑紫さんらの無名村芝居劇団は一番危険なところに送られた。
1941年難産の末、男の子が生まれる。 しかし大分巡業中、生まれてまもない男の子は白髪染め用の劇薬を飲んでしまう。 病院に運ぶが軍医は戦争にいって不在、しかも洪水で交通機関は不通となっていた。
筑紫さんは、ひたすら神仏にすがる他はなかった。
たまたま、お年寄りが卵の白身を子供に飲ませると子供は黒い塊を続けざまに吐き出し命をとりとめることができた。 筑紫さんはこの出来事以来、仏門とのえにしを結んだという。 彼女はいう。「娘時代、恋に破れて堀に飛び込み命を長らえました。
その前に、父のいない混血児として生まれ、父と母に拾われて育ちました。 そして自分の産んだ子が旅先で命を救われました。 みんな神仏のおかげです。
50まで役者の仕事をしましたら、髪をおろして仏門に帰依したいと、その時心に誓ったのです。」
1968年福岡県二丈町に愛仙寺を建て、一命をとりとめた息子が先に得度しこの寺の住職となった。
彼女は夫・儀一と1960年に死別し、38歳で一座を率いて「佐賀にわか」を演じて各地を旅してきた。
筑紫美主子は、苦難に満ちた自分の体験を逆手にとってそれを芝居に生かした。 ロシアの血をひく筑紫美主子一座による「佐賀にわか」は単なる滑稽劇ではなく哀感がただよう劇に生まれ変わった。

私は一度、玄界灘近くを通るJR筑肥線・福吉駅近くにある愛仙寺でお話を聞くことができた。
それはある不思議な「めぐり合わせ」の話だった。
 筑紫さんは寺の裏の地下にある大仏のところに連れていってくださり、こわれかけた鳥居をみせてくださった。 この鳥居は天神にあった柳原白蓮・伊藤伝右衛門の邸宅(銅御殿とよばれていた)の鳥居だったが、銅御殿が火事で全焼し次にここに住みついた人から筑紫さんにこの鳥居ひきとってもらえないかという話かあったそうだ。
筑紫さんがその鳥居を見にいったところ、そこにほられた製作者の名前から、筑紫さんの亡くなったご主人の実家(佐賀市蓮池の石屋)でつくられたものであることか判明した。その「めぐり合わせ」に驚いた筑紫さんは、自宅にこの鳥居を大切に保存することにしたそうである。
初対面の筑紫さんは、つつみこむようなあったかさの中にも、どこか凛としたものを感じさせられる方で、このような話をかみくだくように話してくださった。

その2ヵ月後、メルパルクホールでの「筑紫美主子60周年記念公演」を見に行った。「案山子」と題した公演で出奔した息子と親との情愛を描いた舞台で、おかしくてどこか哀しい、ひきこまれるような舞台であった。
そしてメルパルクホールを超満員にした筑紫さんの人気の秘密を初めて知る思いであった。
かつて自宅を訪問した時には筑紫さんはか細く歩くのがやっとといった感じであったが、舞台では別人のように迫力があり動きも機敏であった。この時、芸人魂のすさまじさに感嘆した。
愛仙寺には地元の作家・劉寒吉の歌碑が立っている。
「をみなあり 肥前の国の肥の女 かなしからずや ひとをわらわす」