大正天皇の生母は柳原伯爵家出身であり、大正天皇の姪にあたるのが柳原白蓮である。精神的に薄弱な公家との結婚にやぶれ、福岡の炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻となった。 柳原白蓮は文学サークルをつくり「筑紫の女王」とよばれていた。
伊藤伝右衛門が白蓮のために建てた豪邸が「銅御殿」(あかがねごてん)であるが、私は銅御殿は飯塚あたりにあるとばかり思い込んでいたが、よく調べると銅御殿は、福岡市の繁華街天神のど真中にもあることを知り、柳原白蓮の福岡での活動を調べてみたいと思うようになった。
今の西鉄の「天神」バス停のすぐそばの新生銀行(旧長銀ビル)あたりが銅御殿があったところで、1927年に火災にあい短時間に全焼した。
柳原白蓮にとっての大きな「めぐり合わせ」は、自ら書いた戯曲の上演で知りあった東大新人会の宮崎龍介と恋におち、伊藤伝右衛門の家をでる。宮崎龍介の父親が宮崎滔天で、アジアの革命家と連合しようとして孫文の中国革命運動を援助した人物である。
恋愛において自分の意志を貫いた「新しい女性」柳原白蓮は、イプセンの小説「人形の家」の主人公からとって「和製ノラ」などと呼ばれていた。しかしまだ「姦通罪」もあった世相の中、白蓮の行為に対する世の糾弾は激しかったようである。
 白蓮の兄にあたる柳原義光は、白蓮のスキャンダルで貴族院議員を辞職し白蓮を勘当するが、去られた側の伊藤伝右衛門はついに白蓮を「姦通罪」で訴えることはなかった。
 晴れて宮崎龍介の妻となった白蓮ではあるが、病気がちで病床にあることが多かった龍介を自らの文筆で支えて面倒を見た。しかし銅御殿の金屏風の陰で泣いた日々よりは幸福であったと回顧している。
また学徒出陣した龍介との子・香織が戦死し、白蓮は悲しみのあまり1年で髪の毛が真っ白になったといわれている。しかし、このことを機に戦後は平和運動に参加し「悲母の会」を結成しその後世界連邦婦人部の中心となり活躍した。
東京・西部池袋線の旧上屋敷駅近くに白蓮と龍介が1923年から1967年まで暮らした家が残っている。晩年の5年間、白蓮は緑内障で両眼を失明していたようだ。宮崎龍介は白蓮の死の4年後、1971年に亡くなっている。
私は柳原白蓮の生涯を見る時、もうひとり一人の女性を思い起こす。恋人とともに雪中ソリでソ連国境を越えた岡田嘉子である。
岡田嘉子が恋におちた杉本良吉は伯爵家の出身の演出家で、すでに配偶者がいた。
二人の恋は女優と演出家のよくありがちな「めぐり合わせ」であったが、二人のロマンスはその後、茨の道をたどることになる。
岡田嘉子は自由のない日本での女優生活に辟易し新天地を求める一方、杉本は日本共産党員で、徴兵を逃れるためとソビエトの演出家の下で勉強するという目的があった。
1938年、二人でソ連国境の警備隊への慰問を装い樺太に向かい、そこから雪中ソリで国境を超えたのである。
その後ソ連で拷問による取調べをうけた杉本はスパイ容疑をかけられ銃殺となり、嘉子は強制収容所に送られた。この時、岡田嘉子には杉本が病死と伝えられていた。
嘉子は10年ほどの強制収容所での生活の後釈放され、翻訳、アナウンサーなどの仕事などをして演劇大学で学んだ。
1972年、70歳になった嘉子は再び日本の土を踏んだ。日本でしばらく女優としての活躍をした後、1986年再びペレストロイカ最中のモスクワに戻った。
1992年2月10日岡田嘉子は89歳の生涯を閉じる。遺体はモスクワのドンスコイ葬儀場で火葬され、その遺骨は日本に埋葬された。

柳原白蓮と岡田嘉子には恋愛による出奔という点以外にも様々な共通点があるように思える。
いずれも恋愛当事者の一方の相手が伯爵家であり家の束縛からの自由を求めていた点、当事者の一方が革命を志し、他方は戯曲や演劇などといった芸術を志していた点である。
岡田嘉子は大正デモクラシー下の演劇人として活躍し倉田百三作の「出家とその弟子」に出演し女優としてその名を知らしめた。
実は柳原白蓮も倉田百三と交流があった。倉田百三が九大の耳鼻科・久保教授の治療をうけるために福岡の金龍寺に寄寓した際に、久保教授の文学サークルを通じて交流があったのである。
福岡の金龍寺(西区今川橋)には倉田百三寄寓碑が立っている。
現在、天神界隈に大正期の建造物というものを見ることはできないが、私はかつて銅御殿があったオフィスビルの狭間の隘路を通る時、時々柳原白蓮が横切った残像を見た気がする。