人の生き方を見ると、いくつかの類型にわけられそうな気がする。その一つが「裏返った人生」、英語で「Reversed Life」である。私が勝手につけた名前なのでこんな言葉は定着しているはずもない。
一つの立場で生きた人生が、ある時点で全く反対の立場で生きることがある。
これは「ディベ−ト コンテスト」に良く似ている。ディベ−トとはAの立場でBを論破し、今度は同じ人物がBの立場でAを論破するというものである。
はじめ、このコンテストに何か違和感を感じたが、よく見回すと実人生にもこういうことは良く起こり得るということを思うようになった。つまりディベ−トは結構、役に立つということだ。

法曹の世界で、検事として長年生きた人が弁護士として生きるというケ−スなどが一番分かり易い例である。
その他にも、労働組合の幹部だった人が、今度は管理職として労働組合と対決するケ−スなどである。
別に生き方の良し悪しをいうつもりはなく、ただそういう人生の「めぐり合わせ」に面白さを感じるのである。
天才ハッカ−が服役後、今度は警察サイドに雇われてハッカ−防止に生きるという「裏返し」もよくあることである。
「ハッキング」は「創意工夫をうまく発揮する」の意味で、「hack」は独創的ないたずらという意味を含み もともとそれほど悪い意味ではない。
例えば、敵の応援団の人文字コ−ドの指示板を盗んで別の人文字コ−ドにいれかえておいて敵の応援を混乱させるなどユ−モラスなハッキングもある。
コンピュ−タのハッカ−にはそれほど罪の意識がなく、ゲ−ム感覚でハッキングをやっているケ−スが多い。 彼らつまり「元ハッカ−」は、ゲ−ム感覚でハ−ッカ−防止を完璧なまでの技術でやってくれている。
また、天才詐欺師が、「裏返って」詐欺対策顧問として多くの一流企業と契約を結んて生きるケ−スなどもある。 アメリカの実在の詐欺師の話が「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」という映画なった。
アバネイル・フランクはニューヨーク近郊ブロンクスヴィル生れで両親の離婚を機に家出する。航空会社からパイロット情報を入手し、まんまとなりすましたうえに偽装小切手も使いこなす詐欺師になる。
16歳から21歳までに、偽造小切手と医者・大学教授などの身分詐称で250万ドルを稼ぐ。その間、美女も飲食も思いのままというアンビリ−バボ−な人物。
連邦刑務所で服役後、数々の職業を経て小切手詐欺に対するコンサルタント業を思いつく。その時の口上は次の通りであった。
「おたくの従業員に、閉店後、1時間ほどレクチャ−をさせてくれませんか。もし、その講演が何の役にも立たないと思われたなら、お代は要りません。もし、有益だと思われたなら、50ドル支払ってください。それと他の銀行のお友だちに電話して、私のことを紹介してください。」
そして以下は彼の自伝「世界をだました男」(新潮文庫)の紹介文である。
「フランク・アバネイルは今、文書の偽造と保全に関して、世界でもっとも重んじられている権威者の一人である。
彼は25年以上にわたり、FBI経済事犯対策班と協力してきた。現在は、FBIアカデミ−で教壇にたつとともに、FBIナショナルアカデミ−で、全国の市町村、州、連邦の法執行機関の捜査官を指導するプログラムを受け持っている。
また、ワシントンDCに本拠を置く文書保全の会社の設立者でもあり、世界中で定期的に講演を行っている。妻と三人の息子とともに、中西部に在住している」
彼の人生こそ劇的に「裏返った人生」である。スティーブン・スピルバーグが映画化し主役の詐欺師にはレオナルド・ディカプリオがなっている。

私には元ソニ−の社長・大賀典夫氏の生き方が印象に残る。
1950年 ソニ−が最初のオ−ディオ・テ−プレコ−ダ−を出した時、大賀典夫は東京芸術大学の声学科の学生だった。
大賀はこのテ−プレコ−ダ−のファンであったが、この新製品に対する批判を会社に出し辛辣を極めた。 確かにソニ−の側からしても、ウフやフラッタが多いというのは納得できるものが多かった。
そして彼がまだ学生時代であった1953年、嘱託としてソニ−(当時、東京通信工業)と契約した。つまり彼はソニ−専属の有給の批評家になった。そして常に彼の思いつきは斬新で魅力に富んでいた。
改めて大賀は1959年に入社、そして昼はソニーの社員として働き、夜はバリトン歌手として音楽活動をするつもりであった。しかし過労からオペラ公演で失敗し、やがてソニーに専従することになる。
井深大、盛田昭夫両氏のもと第二製造部長に就任。すぐに広告部長とデザイン室長を兼務。そして1964年、東京オリンピックの年に取締役に就任し1982年に52歳の若さでソニ−代表取締役社長に就任している。
彼が社長になった時は、ちょうどCD(コンパクトディスク)発表の時期であった。そしてオランダのフィリップスの提案したCDの重要性にいち早く気づいた逸話は有名である。
大賀社長時代のCDの開発は、1978年オランダのフィリップス本社を訪ねることから始まった。両者の規格の調整には多大の労力を要した。大きな対立は記録時間の長さでフィリップスは60分を主張し、ソニーは「記録時間の長さは音楽の楽曲の時間から逆算して決めるべきだ」と主張した。
当時、LPレコードではベートーベンの交響曲「第九」の収録に困っており、主要な楽曲をコンパクトディスク1枚に収めるには直径12センチで75分間の容量が必要だと大賀は強く訴えたのだ。 結局この主張が入れられた。
CD開発時に、音楽家である彼が社長であったことはソニ−ばかりではなく日本にとっても大きな「めぐり合わせ」であったといってよい。
大賀が社長の期間、ウォークマン開発に関与し、現在のソニーブランドにつながる功績を残し、大賀は「ソニ−の旋律」を生んだといわれた。1989年に社長兼CEOに就任してからは、米コロンビア・ピクチャーズの買収を行っている。
私が1年間カルフォルニアで暮らしたとき、スケ−ボ−にワォ−クマンにヘッドフォン・スタイルの若者の姿を街にたくさん見かけた。彼らは、ジ−パンに引っ掛けたウォ−クマンを皆一様にウォ−クマンではなく「ソニ−」という名で呼んでいた。
背景に、大賀典夫氏の「超」消費者クレイマ−から会社社長への「裏がえった人生」があった。