人間というのは様々な風に吹きさられており、いつもその風の音を聞きながら自己の位置を確かめ進むべき方向を定めているようなものだと思う。
その様々な風が外なる風ならまだ御し易いが、内なる狂風に妨げられて立ち止まりを喰らったり、とんでもないところに碇を下ろしたりしているものだと思う。
しかし、外界の風雨や内なる狂風に吹きさらされながら、少しづつ自己発露のありかを確実にものにしていった二人の人物について紹介したい。
もちろん彼らには貴重な出会いがあった。だからこそ彼らが挫折や喪失を超え、自己の才能が発露する時にめぐり合うことができたのだと思う。

ジミ−大西こと大西秀明は大阪生まれの大西は小学校時代より野球に熱中し、後に巨人の桑田も所属した少年野球チ−ム八尾フレンドで活躍した。
中学校時代でも野球部で頭角を表し、スポーツ推薦で強豪の大阪商大堺高校に進学した。並み居る部員のなかで大西は特に目立つ存在ではなく、しかもベンチのサインが覚えられずにレギュラーにはなれなかった。
ヒットで出塁すると監督の身振りを一つ一つを計算してサインを読み取るのだが、大西が計算するとなぜかマイナスになってしまった。
ついにベ−スの横の地面に数字を書いて計算していると、ベンチで「おまえなんかやめてしまえ」と、監督に怒鳴られた。
野球ではこれ以上だめだと諦め、高校在学中から吉本へ入りなんば花月の舞台進行役を経てぼんちおさむに弟子入りした。
その後漫才コンビを結成するが、相方とのバランスがいつも悪くて漫才コンビは長続きすることなかったという。 しかし心根の優しい大西を明石家さんまが運転手として面倒を見てくれることになった。
そして、いくつもの一発ギャグを身に着けてテレビの出演機会が次第にふえていく。
そしてこのテレビ出演が増えたことが、誰も予想していない彼自身の画才の発見と結びついたのだから、いわば親がわりとなったさんまとの出会いは彼にとって貴重な「めぐり合わせ」であったのだ。
あるバラエティ−番組で、芸能人の書いた絵を出して誰の絵かを当てようという企画がもちあがった。その中でいわば、お笑いネタの意味で大西にも声がかかったのである。
司会者が軽く紹介した大西の絵が、幾人もの芸能人の絵のなかで一番評判がよく、会場はある種、驚きにつつまれたのである。私もこの絵をテレビで見たのあるが、決して寒いという意味ではなく少し「ゾット」した。
ジミ−の絵は意外とハデだった。(これサムイかも)
1993年に初めて個展を開催し動物などをテーマとしたシュールな画風と鮮やかな色彩感覚で画家として注目脚光を浴び「平成の山下清」とも称された。
アメリカ、スペインで創作活動を行い、独特の画風で活躍中、モノレールのデザイン、ロサンゼルスの観光バスのペインティング、CDジャケット、切手、銀行通帳などのデザインやオブジェなど、公共作品も多く手がけている。
香川県坂出市の川崎造船坂出工場で建造された天然ガスタンカーにはジミーと地元小学生が原画を担当した「さかな」「カニ」「エビ」「かめ」の4種類の絵が特殊フィルムによってプリントされている。なお、これは乗り物としては世界最大のラッピングであるという。
 作品は岡本太郎、横尾忠則ら、日本を代表する美術家に絶賛されている。岡本太郎は、大西に君の絵はすばらしい、枠にとらわれず、はみ出すように描きなさいといわれ紫の絵の具をプレゼントされた。大西によると紫の色使いが一番難しいのだそうだ。
大西の絵が何か切り取られたような印象を持つのは、岡本太郎の助言どおり正にハミダシているからなのだろう。

もうひとりはテノ−ル歌手の新垣勉である。
全盲の新垣が「さとうきび畑の唄」を歌うのをテレビで見た時、この人の声の格調の高さにシビれた。
新垣は1952年、沖縄アメリカ軍の父と日本人の母との間に沖縄県読谷村に生まれた。生後まもなく助産婦の過ちで家畜を洗う劇薬を点眼され失明した。さらに、1歳の時には両親が離婚し父は本国に帰り、母が再婚したため母方の祖母に中学まで育てられる。
当時は「自分ほど不幸な人間はいない」とすべての人間に強い憎しみを抱いて生きていた。中学2年の時に祖母が他界し、天涯孤独の身となった。
その後、母の親戚に身を寄せるが高校1年の時に、自身の不幸を嘆き、井戸に身を投げようとしたこともある。そんな時、ラジオから流れてきた讃美歌がひとすじの光のように彼の心を照らした。
そして一人の牧師に会い思いのすべてをぶつけたところ、牧師は涙を流しながら彼の話を聞き、その後家族のように彼を迎え入れたという。
この出会いは彼を精神的に立ち直らせる転機となった。
 新垣は沖縄の盲学校から東京キリスト教短期大学に進学、卒業後は、西南学院大学神学部に進んだ。
在学中にヴォイス・トレーナーの世界的大家、A.バランドーニ氏のオーディションを受けたところ、新垣の声は日本人には出せないラテン的な響きをもっており、その声を磨けばきっと多くの人を喜ばせることができると言われ、本格的に声楽の勉強をする決意をした。
現在、新垣は、歌を通じてキリスト教の布教活動をしておられる。
  今は父や母への憎しみは消え、、心の底から、メキシコ系アメリカ人の父親からもらった声と生んでくれた母に感謝することができると言う。
現在、父親の所在及び生死は不明だがもし会う事ができれば、ぜひ父親の前で歌を披露したいという。