柳川出身「華麗なる一族」


「はじめに」

歴史の中で様々な要素や条件が重なって出来上がった「一塊の山」を見つける。その要素ひとつひとつをブロックとみなすならば、ある人物の存在や、その人の行動、そして歴史的趨勢、自然環境などのブロックでその山は構成されている。
またブロックをばらまいて偶然できた山の形にも、偶然を超えた何かがあり、その山の形を決定的にしたものがある。そこで一つのブロックをはずしてみたり、時に加えたりすると山の形がどう変わってしまうかを調べてみたりもする。
時々面白い形の山をみつけては、その山の形をズームアップして小さなブロックの一つ一つの組み合わせを調べてみる。面白い組み合わせをみつけると、その組み方、重なり具合を私なりの観点で調べてみたいという欲求にかられる。
音楽評論家の吉田秀和は、名曲を評する時に相撲の動きを比喩として音楽評論の中ににとりいれておられるが、相撲の動きの中で何がその勝負を決するのに決定的な動きだったかを見抜くことが大事であると言っている。
歴史の出来事を見つめる中で、もっと細かく探せば、あるいはもっと眼力を磨けば、もっと広い視野から見れば、たくさんの「宝の山」を堀り起こすことができるかもしれない、といつも思う。 以下は、そのなかでもブロックの重なり具合の妙を「めぐり合わせ」と表現できうるものを集め「ハンドレッド スト−リ−ズ」としたものである。
私は福岡に住んでいるためにどうしても地元に題材をとるものが自然と多くなった。ここには色々な分野のスト−リ−を集めているが、私が物を調べる際に最大の武器としているのはインタ−ネットの検索である。
こうした情報収集は、大概においてほんの「一粒の好奇心」からはじまるのだが、いつも体験することは、物事を調べたりまとめたりする過程で予想もできない世界が広がっていくことである。 これはインターネットという軽快な道具のがあったからこそで、おそらくは膨大な百科事典を保有していたとしても、こうした広がりを体験することはなかったと思う。
「ハンドレッド スト−リ−ズ」の内容が多岐にわたるのはそういうわけである。

オノヨ−コと柳川

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは人々の心を優しく包んでくれる。
その川くだりの過程で、船頭さんが、「ここがオノヨ−コさんのご先祖のいえです。」という案内の声が聞こえる。
オノヨ−コの家系を辿ると小野英二郎という明治の著名な財界人と出会う。
小野英二郎はこの筑後柳川に生まれた。彼の先祖は、戦国時代柳川藩立花宗茂の家老で、豊臣秀吉配下の七人の槍名人の筆頭小野鎮幸である。
 この小野英二郎氏の長男である小野俊一は俊才の誉れの高い人物で、東京帝大を中退して動物学をまなぶべくロシアのペトログラード大学に留学した。そこで帝政ロシア貴族の血を引くアンナ・ブブノアという女性と恋愛関係におちいる。二人はロシア革命のさなかに結婚し駆け落ち同然にして日本にやってきた。
 小野俊一と結婚したアンナは、ペテルブルクの音楽院で世界最高水準の音楽環境の中ヴァイオリンを学んでおり、息子の俊太郎をヴァイオリニストにすべく育てた。しかし、医師が息子の病気に気づかずさらにアンナ不適切な処置のために最愛の息子を14歳で喪うという不幸に見舞われた。
二人はその後協議離婚するも、小野アンナはその後も日本に留まり、音楽教室を主宰し1960年ソ連に帰国するまでの42年間を日本ですごし早期英才教育の唱導者として知られた。小野アンナの門下生に長じて美貌をうたわれながらも癌で若くして亡くなった天才女流バイオリニスト・巌本真理をはじめ諏訪根自子、前橋汀子、潮田益子らがいる。
私は数年前この小野俊一やアンナが生活した邸宅があった東京のJR飯田橋駅近くの富士見坂あたりを歩いたことがある。靖国神社のちょうど裏手あたりの高台で江戸城外堀のむこうには神楽坂の商店街も見渡せる場所であった。
その邸宅は今はないが「味の本」の創業者が建てた壮麗な洋館建ての家で、小野俊一氏は安田財閥の娘・磯子と再婚し、離婚後のアンナもアンナが呼び寄せた姉とともに小野夫妻と同居するという奇妙な家庭生活が営まれていた。
 ところで小野俊一の三男が、バイオリニストから銀行家に転進した小野英輔である。小野英輔は横浜正金銀行サンフランシスコ支店副頭取になりアメリカで家族とともに生活した。この小野英輔の娘が、後のビートルズのメンバ−・ジョンレノンの妻・オノヨーコである。
小野洋子は自分の幼少の頃の生活について、「ただの私」という本のなかに書いている。
父はいつも海外出張で、母は色々な交際で多忙のため、母の里にある別荘で育った。その別荘の庭はとてつもなく広大で、食事をするときは昼も夜も、長いテーブルに座って一人で食べる。そばに家庭教師がただ座って見ている風景は確かに異様かもしれない。
時々、お手伝いさんに「お弁当ちょうだい」と頼んで、一人で「遠足」に出かけるが、遠足といっても広大な庭を歩きまわるものだった。
その庭がどれくらい広いかというと、草摘みの女の人が8人くらい毎日草を摘んでいるのに、全部積み終わったころには、はじめ摘んだところの草がまた伸びてしまっている程だったという。
彼女のそうした幼少時代がどのような影響をもたらしたのかよくはわからないが、小さい頃から人がやらない変わったことばかりをやっていたという。既成概念や既成社会への反発心こそ彼女の本領といいてよい。
小野が描く小説は、これまでの形式に収まらず、学校の先生からはこういうものはいけないんだと聞かされ、それがますます彼女の「芸術」を従来の形態からはみ出させる結果となった。
オノヨ−コは学習院大学中退後、ニュ−ヨ−ク郊外のさらロ−レンス大学に入学、三年目にニュ−ヨ−クに移住した。禅とジョン・ケ−ジに影響されたアンダ−グランドのア−チストの集まりであるフルクサスに加わ、前衛的な芸術を志向した。
1962年初春、同じくニュヨークで苦労した一柳慧という芸術家として最初の結婚するが、夫婦は芸術の指向性においては対照的だった。
後にジョン・レノンと結婚して「ビ−トルズを破壊した女」「ヨ−コがジョンを変えてしまった」とか悪口をしわれたが、実は芸術家としても批評家から散々叩かれてきた。
そして自分のことを酷評する日本の批評家や芸術家達は、一柳からすればみんあ親しい仲間にあたるわけである。そんなわけで夫婦としてやっていくことが次第に難しくなり、離婚することになった。
その後、自殺未遂や精神病院にはいったりしたが、オノの作品に興味をもち病院を訪問してくれる男性と二度目の結婚をして子供がうまれている。
オノ・ヨ−コの作品はユ−モアが、子供のようでもあり、気難しく多くは観客の参加をふくむものであった。「踏まれるための絵画」や、はさみでヨ−コの服を切り取っていく「カット・ピ−ス」などがある。また「お尻」の映画をプロヂュ−スしている。お尻に興味をもったのは、お尻は顔のように表情をコントロ−ルできない。コントロ−ルする前の邪気のない素顔をしている。またお尻には攻撃的なところがなく、やり返すというところがない、お尻こそ本当の無抵抗主義である。
(確かに、学校の先生にこんな「お尻の主張」をする生徒がいたら、ふざけるな!と一喝されるでしょうね。)
ある作家がオノヨ−コの作品を次のように巧みに評している。
「丁度、いままで知らなかった、はじめての見えない町で、ものを見るときのような、あるいはシェリフや泥棒や、打ち合いなどの西部劇を馬の目を通して見ているようなものである。」
 オノ・ヨ−コがジョン・レノンと出会ったのは1966年11月9日のことである。前衛芸術家として名前が知られつつあった洋子はニューヨークからロンドンへと活動拠点を移したばかりの頃であった。新しい音楽の方向を模索していたジョンが友人より彼女のうわさを聞きその個展を訪れたのが二人の出会いである。
互いに寂しさを感じる家庭を持っていたが、二人は激しい恋愛に陥る。二度目の夫と離婚し、1969年に正式に結婚する。ジョンが28歳でヨ−コが36歳の時であった。
オノ・ヨ−コはジョンの才能に惚れ込まれずにはいられなかったと、次のように語っている。
「例えば、彼の弾くギタ−は、大抵のギタリストの音とは、全然違う。ほとんどのギタリストがテクニシャンだが、ジョンはそうではない。いってみれば白隠(江戸時代の高僧)の書のゆなところがある。ただ丸を書いてポンと点をうつ。非常に単純に見えるが、その丸をカッと書いた線が、なんとも、ものすごい。これを見ただけで、白隠という人がどれくらい迫力のある人物だったかわかってくる。」
オノ・ヨ−コの芸術活動がジョン・レノンに与えた影響は大きく、二人の歩みが我々には共同歩調のように映った。アルバムに二人ともヌ−ドで登場し物議をかもしだしたこともある。

 柳川の堀端に佇みながら少しばかり年老いたジョン・レノンとオノ・ヨ−コの二人がゆっくりと白壁の屋敷の間を歩く姿をイマジンしてみた。
 ジョン・レノンが生きてさえいれば全くあり得ぬことではなかったかと思いつつ。