私は愛知県明治村でハワイ島ペペオケ耕地で日系移民の起床や作業開始の合図に使われたという鐘を見たことがある。 その説明書きによると耕地の農業移民達は、朝4時半にこの鐘で起こされ、食事、支度の後、午前6時から午後4時半まで、11時半から30分間の昼食休憩時間をはさんで10時間の労働を行なったとあった。
それは、私が本で読んだ限りでの満州移民や南米移民の比べて「生存の過酷さ」というものをそれほど強く感じさせるものではなかった。
それはハワイという常夏の美しい島のイメ−ジがあったからかもしれない。
しかし太平洋戦争がハワイ真珠湾で勃発したという「めぐり合わせ」は、ハワイ日系人に筆舌に尽くしがたい苦難を強いることになる。

ハワイへの移民は、1868年153人の日本人移民が無許可渡航したことにはじまり、1881年ハワイ国王が来日し移民を希望、翌年から本格的に移民が開始され、今日のハワイ開拓に著しく貢献した。
太平洋戦争がはじまった1941年12月7日は、アメリカに住む日系人にとって運命の日となった。
この日の未明、日本軍は、ハワイの真珠湾に配備されていたアメリカ軍の艦艇、航空機 に対して奇襲を加え、数時間にわたって爆撃を行なった。
攻撃の翌日には,日系一世の預金が凍結され、日系商店の中には閉鎖を命じられるものが続出 した。
ハワイの日本人の逮捕抑留は、真珠湾攻撃の当日のうちに開始され、FBIは8日の夕方までに 潜在的に危険とみなされた日本人345人の身柄が拘束された。 当局はその後も引き続き社会的・宗教的・知的レベルの日系一世を中心とする日系人144人を 逮捕し、そのうち3分の2を強制収容した。
また、12月30日には、禁制品捜査のための適性外国人家宅捜査令状を出すことが認められ、 昼夜を問わず数千の日系家庭への家宅捜査が始められた。
家宅捜査を警戒し、アメリカに対する忠誠心を疑われることを恐れた日系人の家族は、それまで部屋 に飾っていた天皇の写真を隠したり、神社の祠を地下に埋めたり、また日本語の本や日記、日本 にいる親戚の写真、アルバム、日本刀といった日本に関する品物を処分した。 時には暴力をともなう日系人攻撃におびえ、敵国人として扱われることを恐れる人々は、当然のこととはいえ、他人の巻き添えになることも恐れ、抑留された日本人の妻や子供達に対して背をむけ冷たく 突き放すことも少なくなかったという。
開戦によって大半の日系人がアメリカに対する忠誠を明らかにしたが、実際には一世や帰米二世の中には「親日的」姿勢をあらわすものも少なからずいた。
皇軍や日本民族の優越性を最後まで信じて、日本軍優勢の噂も跡をたたず、終戦後になっても日本の敗戦を信じない者もいた。
つまり真珠湾攻撃がハワイの日系人社会に与えた傷を長く癒しがたいものとして記憶されることとなったのである。

1941年真珠湾攻撃により、それまで日系人がこの地で築いてきたものが一気に覆された。 日系人の主要人物は憲兵隊や警察により連行されオアフ島の収容所にいれられた。 日系人は10人以上集まってはいけない。家から15マイル(24キロ以上)遠くに行くな。 バスの中には英語で話せといった指令がでる。
日系2世の若者達は、こぞってアメリカ軍隊の入隊を志願し信頼を取り戻そうとした。 ルーズベルト大統領により、日系二世部隊第442歩兵連隊が新たに編成されることになった。 ハワイ島から2700人が入隊した。
422連隊は、同じ日系人部隊100部隊とともに、ヨーロッパ戦線でナチス=ドイツ軍と戦った。 死をおそれぬ日系人部隊の活躍は、かずかずの勲章をうけ、アメリカ国民の賞賛をうけた。
二世部隊の犠牲的な活躍は、真珠湾攻撃で失われた日系人の信頼を取り戻した。
ハワイの日系人は、様々な苦難を「アロハ精神」とよぶ助け合いの精神でたがいにささえあって 生き抜いた。
日系人部隊の活躍は「ゴーフォーブローク(あたってくだけろ)」というハリウッド映画にもなった。
またドウス昌代女史は、ヨーロッパ戦線に活躍した日本人兵士達の生きざまと闘いを、克明な聞き取り調査にもとづいて「ブリエアの解放者たち」(文芸春秋)という書物の中にまとめている。

そんなハワイ日系人の苦難をエリソン・オニズカの祖父母達も味わってきた。
エリソンの祖父・鬼塚吉平と祖母・ワカノも1890年代に福岡県からオアフ島にやってきた。 いわゆる官約移民であり、そこでコーヒー畑をつくり、日用雑貨店のオニズカストアをたてる。
夫婦は、7人の子どもを育てその一人が正光でタクシー運転手の仕事をした。 正光は、広島県出身でハワイ島のコナでコーヒー栽培をしていた長田光江と結婚する。
1946年6月24日この日系2世である正光と光江との間にハワイ島コナ郊外のケオプ村に長男として生まれた子がエリソン・オニズカである。
エリソン・オニズカは、コナの町のコナワエナ高校にすすみ学校の勉強以外にもボーイスカウトやコナの本願寺のYBA(仏教青年会)でも活躍した。
そして成績人柄すべてがすぐれた生徒でなければ選ばれない「ナショナルオーナーソサイエテイ」というクラブのメンバーに選ばれ成績も卒業時点で学年のトップになっていた。
エリソンは、1964年にコロラド大学に入学し航空宇宙工学を学び予備将校訓練コースに入った。
この体験が後に宇宙飛行士への道を開かせることになる。
1969年大学を卒業し、アメリカ空軍の少尉となった。その翌日、3歳年下のハワイ島出身の日系3世ローラ・レイコ・ヨシダとコロラド州デンバーの寺院で結婚式をあげた。
その1ヶ月後、アポロ11号が月面着陸をした。
エリソンはカリフルニア州マクレラン基地で飛行機の試験飛行をテックするテストフライトエンジニアの資格をとった。
その後エドワード基地テストパイロット学校に移り、試験飛行センターのエンジニア主任となった。 この時「プロップウッシュ賞」をうけている。これは「冷静であること。ユーモアがあること。やる気があること」が条件となった賞である。
1978年1月スペースシャトル計画に選ばれた35人(78年組)の宇宙飛行士の一人に選ばれる。
そして1979年エリソンはスペースシャトルの10回目の飛行「STS−10」の乗組員に指名された。
この時エリソンは、真珠湾攻撃後の日系人2世の戦闘部隊の犠牲がハワイ日系人の信頼回復につながったと思った。
1985年1月24日 アメリカ東部時間 午後1時41分 ディスカバリー号発射(5人の宇宙飛行士)初飛行をする。
エリソンオニズカは、デイコバリー号に搭乗しアジア系の人間としてはじめて宇宙にとんだ。エリソンは帰還後、ハワイのそして日系人の英雄となった。
そして1986年1月26日に計画されていた第二のミッションを待った。今度のエリソン・オニズカのミッションは宇宙遊泳でこれもアジア人がやったことのないものであった。
このミッションのために学校に行って子供たちに教育を行なうはずのプログラムをあきらめた。しかし1月26日はとても風が強くミッションは1月27日まで延期された。 1月27日にはボルトのゆるみがみつかり、ミッションはさらに1月28日に延期された。
その日、乗組員は8時23分に搭乗した。つららと水道管の損傷のために室内温度は27度にまでさがりミッションは11時30分にまで延期された。 11時30分にチャレンジャーはついに打ち上げられた。 男5人女2人白人・黒人・日系人と多様な顔ぶれであった。 最初の1分30秒間は正常な飛行がなされた。次には悲劇的な瞬間が待っていた。 チャレンジャーは爆発し、7人の宇宙飛行士は死亡した。
エリソン・オニズカとともにクリタ・マコーリフという名の教師がミッションに参加していた。彼女は高校社会科教師で37歳、2児の母であった。 アメリカ全土の小学校にむけて「宇宙教室」のテレビ生放送が予定されていた。これは世界ではじめてのスペースシャトルからアメリカにむけてさらには世界中にむけての授業となる予定であった。
1986年1月27日午前9時38分。スペースシャトル爆破により7人の飛行士がなくなった。 彼らの死を悼む式典でレーガン大統領の黙祷の時、ハワイでは車が昼間ライトをつけて走りハワイの英雄の死を悼んだ。
エリソン・オニズカは最初の日系アメリカ人宇宙飛行士である。 エリソン・オニズカはかつてロサンゼルス旅行の折にリトル東京を訪ねたことがあったが、ロサンゼルスにある日系アメリカ人協会は、彼の死を深く悼み、1986年にエリソン・オニズカ記念財団を組織した。
その直後、オニズカ記念協会は日系人国立博物館にエリソン・オニズカの生涯を永久に展示することを決定した。 同時にオニズカ・ストリートに面した店の経営者達は国際的に有名な芸術家のつくったエリソン・オニズカの像を設立することに決定した。
現在、彼を記念してハワイのコナ国際空港にはエリソン・オニズカ宇宙センターがある。

ハワイ日系人を襲った苦難の「めぐり合わせ」と宇宙飛行士に選ばれたエリソン・オニズカの悲劇の「めぐり合わせ」とが、海を見晴らすハワイ耕地で時を知らせる鐘のように響きあっている。