日本に育ち日本の文化に深い理解をもった外交官がいた。日本と度重なる関わりをもち、カイロで謎の自殺をとげるが、その死についても日本での活動が大きく影響している。
その人物と日本との「めぐり合わせ」というものをつい考えさせられる、その起伏に富んだ軌跡である。

その人物とは、1909年日本の軽井沢で生まれたカナダ人ハーバート・ノーマンである。
父親がメソジスト教会牧師で宣教のために日本に滞在の折に生まれ15歳まで日本で暮らした。これが第一の日本との関わりである。
その後、1927年に結核療養のため、カナダに単身帰国療養、トロント大学ののビクトリア・カレッジに入学する。在学中に大恐慌の悲惨な現実に向きあい貧民救済に関わりながら、資本主義体制の矛盾を意識し、ソ連の失業者なき計画経済の成功を目にして社会主義への共感を持つようになる。
その後、ケンブリッジ大学で学びハ−バ−ドと大学・コロンビア大学に学んでいる。 1939年に年にカナダ外務省に入ってふたたび来日、東京のカナダ公使館に勤めた。これが第二の日本との関わりである。
しかし戦争のために間もなく軟禁状態におかれ、交換船でカナダに戻っている。
終戦直後、日本での経験をかわれ極東委員会や対日理事会で活動した。またマッカーサーの右腕として民主化政策を推進することになる。これが第三の日本と関わりである。

ところでGHQの情報部にはウィロビー准将がいたが、スペインのフランコを崇拝する強力な反共主義者であった。彼は共産主義者の根絶をもくろんでおり、ノーマンに疑いを抱いて秘密裏に調査し、FBIにゆがんだ調査書を送っていた。
ノーマンはマッカーサーの命で府中刑務所からの志賀義雄や徳田球一ら16名の共産党幹部の釈放に立ち会ったことがあった。 調査書にはノーマンが獄中の共産主義者を解放したことを記していたが、それがマッカーサーの命令の遂行であることは伏せられていたのである。
ノ−マンは、ハ−バ−ド大学・コロンビア大学で日本史・中国史を学んでいる。ハーバード大では日本から留学していた社会主義的傾向の強い都留重人と深い親交を結んだ。日本との第四の関わりである。
しかしこの交友がノ−マンの運命をある意味左右することになる。

ノ−マンは外交官としてよりも、彼の本当の真価は学者としてのそれであった。著書「忘れられた思想家」の中で江戸時代中期の安藤昌益を論じ、西欧文明の影響を受けずに日本で自前の民主主義思想が育っていたことを示したものであった。
安藤昌益の名前は日本でもそれほど知られていない正に忘れられた思想家の一人であった。 農耕を天然自然の本道として人間生活における基本的重要性を力説し、儒仏等の倫理的教説を徹底的に批判して、君主・支配者を耕作農民に寄生する徒食の輩と痛罵、すべての人間が農耕を基礎として平等である「自然世」社会へ帰る事を理想とした。
彼の理想社会は、荻生徂徠によって理想化された自給自足的農業社会から更に支配者としての武士を排除した形態でのいわば農本的無政府主義である。
彼の思想があまりにも時代の水準からかけ離れた突飛なもので、当事の人は恐らく狂人の妄想としてしか理解できなかったであろうし、また何より昌益自身、彼の思想が封建制にとって危険性を孕んでいることを自覚しており、その百巻に及ぶ「自然真営道」や「統道真伝」を公刊せず、その行動においても極度に慎重隠密を期したふしが見られる。
あまりにも大胆か卓抜すぎる思想かそれとも一人よがりの思想か、さすがに江戸明治大正昭和を通じてわかりにくくまったく評価されてこなかったのである。
 ノーマンはその昌益の思想を丹念に解読してみせた。さらに昌益にひそむ「沈鬱と平静」という思考の特色を抜き出してみせた点など秀でた解釈を示しているという。

ノ−マンは戦後1946年駐日カナダ代表部主席に就任し、サンフランシスコ対日講和会議の時にはカナダ代表主席随員を務めている。日本との第五の関わりである。
1949年にソ連が核実験に成功し、中国に革命が成功すると、アメリカの国内に反共主義が強まり、赤狩りが始まる。
1950年、カナダ政府はアメリカの圧力のもとにノーマン駐日公使を解任した。
そして冷戦が始まった米ソ間のスパイ戦争のなかで被疑者としてしだいに追いつめられていった。
ノーマンがマルクス主義的傾向をもつことは学界でも周知のことだったが、外交官として実際に「赤」としての動きをしていたかどうかということは、赤狩りをした張本人たちの断定であって、いまなお判断できる者はない。
マッカーシー旋風に巻き込まれてしまったために、エジプト大使としてカイロへに赴任した時に、ハーバード大学時代に親しかった都留重人がアメリカ議会で、自分は学生時代にコミュニストになり、ノーマンと親しかったと証言する。
このニュースをエジプトで聞いてノーマンは衝撃を受け、珍しく鎮静剤を服用したという。
1週間後の1957年4月3日、ノーマンはカイロで日本映画「修禅寺物語」を観ての帰宅後、映画からメッセージを受け取ったような気がすると妻に語る。これが最後の日本とノ−マンとの関わりとなった。
翌日、カイロの9階建てのビルの屋上に登りそこから投身自殺する。
妻と日本にいる宣教師の兄宛の遺書が残されており、そこには「時」が自分の本質的な無実を証明するとあった。
ノ−マンが親しく付き合った日本人としては、渡辺一夫、丸山真男、加藤周一といった一流の学者がおり彼らは一様にノ−マンの死に衝撃をうけその死を悼んだ。
ノ−マンと同じように日本で育ったアメリカの知日派外交官にエドゥイン・ライシャワ−がいるが、ノ−マンは日本についてライシャワ−よりも深い認識をもっていたにも関わらず、その活動が短く謎が多かったせいか、「忘れられた外交官」との印象がぬぐいきれないのは少し残念な気がする。