「或る女」をめぐる人間模様


芥川龍之介の代表作「羅生門」で暗室の中、下人と老婆の間に繰り広げられる劇は「修羅」を思わせる。そして刻々とすぎる時間の中でもともと善良なはずの下人の心に突然のように入り込む悪しき心。腐敗して折り重なった死骸も含めて「羅生門」そのものが人間の心の内面を象徴する一つのコスモスのように思える。
人間や社会はどんなに外観を美しく装っていても内なる「羅生門」を抱えもっているということかと思う。
ここに一枚の写真がある(としよう)。キリスト教矯風会のメンバ−を写した写真で清新で端正な顔つきをした女性達が立ち並んでいる。
キリスト教矯風会はキリスト教的な道徳観を元に廃娼運動や禁酒運動、教育活動などを進めてきた社会運動団体である。写真の中央には矢嶋楫子会長、その隣には書記の佐々城豊寿が写っている。
佐々城豊寿の周辺で婚姻をめぐる悲劇が二つ起きている。一つは、佐々城豊寿の娘信子は有島武郎の小説「或る女」のモデルとなった女性で小説家の国木田独歩の妻となった人物である。 1895年、国木田独歩は佐々城家の令嬢の信子と晩餐会で出会った。
 独歩と信子は北海道を愛する思いが媒介となったのか、たちまち意気投合し恋愛関係に陥りふたりの愛の巣を北海道の自由な山林のなかに夢見た。
 しかし夢想家の独歩と勝気な信子の結婚は傍目にもうまくいきそうに見えなかった。 しかし二人は母豊寿の反対を押し切って結婚した。母の豊寿が二人の結婚に折れたのは、キリスト教矯風会のメンバ−の一人の女性が仲にはいって豊寿を説得したのだった。
豊寿は、結婚を認めたものの東京に居を構えることを許さなかったためにふたりは新居を神奈川県逗子に構えた。結局この結婚はわずか5ヶ月で破綻し北海道行きの夢もついに実現せず終わった。
独歩は「欺かざるの記」に信子への気持ちを素直に綴っているが空想や感傷を語るには巧みであっても、実生活には無能力な男ではないかと感じさせる内容である。
 また佐々城信子の従姉妹に当たるのが新宿中村屋の創業者の妻相馬黒光であるが、黒光の姉は矢島楫子の息子との婚姻がすすめられていたが、突然理由もなく縁談の拒否が伝えられて狂死する。そして母親(豊寿の姉)もそれに殉じるような形で病死している。
いずれの破局にも矢島会長の「火曜サスペンス劇場」ばりの「魔の手」を感ぜざるを得ないのである。
この矢嶋楫子会長は、矯風会ナンバ−2の佐々城豊寿をあるささいな出来事をきっかけとして嫌悪忌避するようになったらしい。
 社会的には女子教育の推進者として評価されるこの矢島楫子は、死後様々なスキャンダルが暴露されている。ちなみに矢島楫子は熊本出身で甥にあたるのが徳富蘇峰・徳富蘆花兄弟である。
私が学生時代に通ったJR中央線の新大久保駅に近接して矯風会館の建物があった。何時も夕暮れの中に浮かび上がるこの建物が何か「羅生門」の影を帯びていたように思い返されるのである。

 明治の女子教育に生きたもう一人の女性にバーネットが書いた「小公子」を翻訳した若松賎子こと巌本嘉志子がいる。
巌本は1864年に会津藩士松川勝次郎の長女として若松で誕生している。会津藩は戊辰戦争で負け賎子達は父と離れ離れとなり更には6歳の時に母が長年の苦労がたたってか死亡した。幼い妹は親戚の家に賎子は横浜の織物商山城屋の番頭大川甚兵衛の養女となり横浜で育つ。つまり「小公子」に通じる幼女時代を送っているのだ。
賎子のペンネームは出身地の会津若松の若松、そして賎子という名はクリスチャンだった彼女の神の僕であるというところから来ている。
  賎子の英語との出会いは7歳でミス・キダー学校(現フェリス女学院の前身)に入学したことである。そして聡明な賎子はキダーのお気に入りの学生でもあった。13歳の時には洗礼を受け18歳で卒業した賎子は、そのまま教師として学校に留まることになった。彼女は異国かぶれであったかというとそうではなくむしろ賎子の写真は洋装のものが一枚も残っていない。洋行帰りで政府高官の大山巌の妻となった同じ会津出身の山川捨松が鹿鳴館の花として活躍したことと比べると対照的であった。賎子の意識の中にはあくまでも会津武士の娘という強い思いがあったようである。
教師としても活躍した賎子の転機は有望な海軍士官の許婚がいたにもかかわらず1889年に文学者である巌本善治と結婚したことである。
 この結婚はけして経済的に安定したものではなく、賎子は教師としてまた文学者としての活動をこなしながら3人の子供の母親としても精力的に働いた。
夫の善治は「女学雑誌」という本を主宰し妻の賎子はここで作品を数々発表しそしてついに「小公子」の翻訳を日本で初めて世に送り出していった。
 しかし彼女は持病の肺結核が進行し1896年にはそれに追い討ちをかけるかのような事故がおこった。それは二人が開いていた明治女学校が火事でほとんど焼失し4人目の子供を身ごもっていた賎子は夫により炎の中背負われて救出されたが、火事のショックもあってかその5日後に亡くなった。
明治女学校は、先述した相馬黒光はじめ多くの才女を世に出したが、ここにその幕を閉じることになった。
明治女学校はもともとは千代田区麹町にあったが巣鴨に移転している。現在は「おばあちゃん達の原宿」とユ−モラスに語られる巣鴨地蔵通り商店街の突端あたりにその記念碑が立っている。
   賎子の墓は染井墓地にありその墓石には彼女の遺言によりただ「賎子」とだけ記されている。夭折の天才バイオリニスト巌本真理は巌本夫妻の娘である。