「めぐり合わせ」とは単なる「出会い」とは異なる。
空間的・時間的に幾重にも因果が循環的に重なり合いようやく交叉する出会いを「めぐり合わせ」という。
 新宿中村屋に集う人々には、星と星との「めぐり合わせ」を感じさせる運命的なものがある。

 東京新宿東口、日本で一番の繁華街にある新宿中村屋は、信州よりでてきた夫婦によってはじめられた。パン屋からスタートしたこの店に、その夫婦の人間的な魅力にひきつけられた多くの文化人が集い、外国の亡命詩人や革命家をも匿うにいたった。
 現在の中村屋メニューのひとつひとつにそうした人々との出会いが秘められている。
私がこの新宿中村屋に興味を惹かれるのは、この店に出入りしていた人々の多彩さにある。
そしてこの店のメニューが、そうした人々との出会いからうまれているのである。例えば、インドの革命家からは本場インドのカリーライス、ロシアの放浪詩人からはピロシチといったものを取り入れている。
信州穂高出身の相馬愛蔵は、大学をであと故郷に戻り東穂高禁酒会を結成しキリスト教会の活動を通じて仙台出身の黒光と知り会い結婚をする。
東京にでた相馬夫妻は、1901年、本郷の東大正門前の中村屋を譲り受けパン屋を始めた。
すると近くの競争相手のパン店が無茶な安売りを始めた。狙いは中村屋をつぶすことであった。その店は利幅の大きな酒を売ってパンの損益をカバ−しようとし、中村屋も一時酒の販売で対抗しようとしたものの「正直商法」に立ち返り、生まれたのがクリームパンである。
それまでにアンパンとジャムパンは作られていたが、クリームをアンにしたのは中村屋が開祖でこれが大ヒットして危機を乗り切るのである。
1907年 相馬夫妻は学生の町本郷からの新たな発展地・新宿に店を移した。1908年穂高時代に交流があった荻原守衛(碌山)がロダンに学んで帰国し、新宿西口にアトリエを建て、新宿中村屋に通った。
そして荻原守衛ほか柳敬助・中村彝、中原悌二郎が中村屋に美術家・文学者などが出入りし芸術的雰囲気が広がり中村屋はサロンの様相を呈し始める。 ここに相馬愛蔵が故郷である長野県・穂高でつくった東穂高禁酒会の伝統は東京へ移って継承された形となった。
荻原守衛の近代彫刻の最高降傑作「女」は、新宿中村屋の女主人・黒光とのとの交友を通じて誕生したものである。
彼の創作はアトリエにはいると髪を洗い、体をふき、ネクタイをしめるという姿勢で腕一本に8ヶ月もかけるという徹底ぶりであった。
日本において、さまよいつづけていた彫刻の近代化をなしとげた彼の代表作「女」は、32歳で病没する1ヶ月前に完成させた苦心の作であった。
 モデルは新宿中村屋の女主人・相馬黒光その人といわれている。
 相馬夫妻の人柄に魅かれて集まった中村屋サロンの中には その他に女優の水谷八重子や岩波文庫で有名な岩波茂雄などもいた。
また新宿中村屋のメニューは、その多くが中村屋によって保護された外国人亡命者によってもたらされたものである。
1915年には亡命していたインドの反政府活動家ラス・ビハリ・ボースを保護した。
そのうち相馬夫妻長女・俊子とボースの間で親子のような親愛の情が生まれ1918年には俊子がボースと結婚する。この時、相馬夫妻は、日英同盟とイギリスが植民地とするインドの反政府活動家の保護というきわめて微妙な立場にたつことになった。
そして長女・俊子が1920年心労のために亡くなるという大きな犠牲を払うことになった。
そして昭和の初め中村屋は、客が少し休める場所をつくってほしい」との要望もあり喫茶部開設を検討する。その際ボースが是非インドのカリー・ライスを紹介したい、と申し出た。
ボースの妻俊子は、逃亡生活の心労によりこの時すでに亡くなっていたが、彼女を通じて感じた夫妻のインドへの親愛の情から1927年、純インド式カリーの発売が喫茶部の開設と同時に現実化したのである。
1926年春に、突然一人の修道士が中村屋を訪れる。北海道トラピスト修道院の教頭をしていた和田武夫と名乗り、教義上のことでローマ法王と争い破門されたと伝えた。和田氏は牧畜の知識を伝えこれがきっかけとなり東京仙川に中村屋牧場が開かれる。
またこれが機縁で修道院製造のバター・チーズ・タニュールなどを中村屋が扱うことになる。
ロシアの盲目の詩人ワシリー・エロシェンコはエロシェンコは盲学校に学ぶために1914年憧れの日本の地を踏んだ。日本にきたが、その後に起こったロシアの革命騒ぎで送金が絶えて困っていた。
中村屋の2階ではロシア語とロシア文学研究の会をもっていたが相馬夫妻はこの会を通じてエロシェンコと出会う。 その彼を相馬夫妻は、かつてボーズを匿っていた書室に住まわせ家人同様に不自由な彼の身のまわりの世話などをしてやった。
エロシェンコは常にルバシカを着ており、中村屋ではルバシカが洋服よりもはるかに便利でかつ経済的であることを知り店の制服として採用した。
またエロシェンコをかくまったことも縁となり、ロシア料理のボルシチをメニューに入れ、ロシアチョコレートやピロシキやを売りに出したのである。

中村屋には多彩な人々の「めぐり合わせ」が醸し出す濃密な空気が星雲のように漂っているのだ。