私は歴史の中に人と人との出会いの妙味を見出そうとしてそれを「めぐり合わせ」という言葉で表現しているが、外国の地で出会い交流した以下の組み合わせもまた面白みがあるのではないかと思っている。
外国の地で出会うということは、それぞれが思想や立場を超えて人間的な触れ合いができたのではないかと想像するからである。

アメリカのフイラデルフィアにて:陸奥宗光⇔馬場辰猪
○○○○○○○○○○○○○○○‖      ‖
○○○○フランスのパリにて:西園寺公望⇔中江兆民

ここに並べた2組は外国で出会った明治政府要人と土佐民権派の論客の組あわせであり、国内では対立する(もしくは対決することになる)立場の二人が異国の自由な空気の中で意外な交流を暖めているのである。
4人の関わり方つまり「めぐり合わせ」がスりリングなのでここに紹介したい。 ただ前者の組み合わせである陸奥と馬場の場合、民権運動からの「転向者」陸奥と民権運動からの「亡命者」馬場との間には複雑な感情の絡みがあったのかもしれない。仮にそうであっても互いに労をねぎらい故郷の話しなどで意外に盛り上がたのではないだろうか、と推測する。
縦の組み合わせを見ても陸奥宗光と西園寺公望は、政府転覆に関わった陸奥とその赦免に関わった西園寺がヨ−ロッパで交流を深めているのである。

陸奥宗光の自伝は「蹇々録」(けんけんろく)という。「蹇々」とはよろめきながら歩いた記録とでも訳したらいいのか奇妙な題名である。
私は、陸奥宗光については1894年不平等条約改正につくした人というぐらいにしか認識がないのであったが、この「蹇々録」のタイトルの奇妙さに惹かれて少々調べてみると興味深いことが色々とわかってきた。
明治維新における戊辰戦争で幕府側について新政府軍として戦い、敗れた後に許されて明治政府の役人として働くというのはありうることである。例えば幕臣・榎本武揚などは、北海道に独立王国まで作ろうとして敗れたが、明治政府の外務卿として樺太千島交換条約の交渉などにあたっている。
紀州出身の陸奥宗光は明治政府の役人として元老院の議官として働きながら、西郷隆盛の西南戦争の際には、土佐立志社と呼応して内通して政府転覆をはかり逮捕・投獄されているトンデモナイ人なのである。
さらに5年間服役した山形監獄が火事にあい死亡説までが流れている。
私はこの人物が、再び明治政府に拾われ外交担当として不平等条約改正にあたるなどという「転向」に驚かざるを得ないのである。
若かりし頃の陸奥は、雑踏の中を他人とぶつかることなくすり抜けるという特技があったというエピソ−ドもあるぐらいだが、この特技こそ本当の「蹇々録」の名前の由来なのかと思ってさえしまう。
1883年特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めによりてヨーロッパに留学する。
帰国後、外務省に出仕し駐米公使となり山縣有朋内閣の下で農商務大臣、伊藤博文内閣に迎えられ外務大臣になっている。1894年イギリスとの間に日英通商航海条約を締結し幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功している。

ところで陸奥が政府転覆をはかろうとして内通をはかった土佐立志社であるが、土佐出身の民権派・馬場辰猪は1870年7月から1874年12月までイギリスに留学しているために土佐立志社創立には参加していない。しかしかつて英学を学んだ福沢諭吉の下で交詢社の結成と運営にたずさわり、そのため土佐民権派との交流も深かった。
馬場は自由党員そしてその機関紙「自由新聞」社員となったが、1882年に政府より金がでた板垣退助の洋行に反対し板垣と大激論をし自由党を離党し、その後1885年大阪事件の関係で爆発物取締罰則違反の容疑で逮捕され約6ヶ月入獄した。これは結局無罪となるものの結核にかかっている。
その後、1886年に病身の身を抱えあわただしくアメリカに渡っている。この時、板垣外遊などによる自由民権に対する失望もあったであろうし、言論の自由を海外の地に求めるという気持ちも働いたと思われる。
馬場がアメリカでいかなる生活をしたかが面白い。サンフランシスコに到着するや持参した甲冑や刀剣を身に着けて、「日本古代の武器」についての講演を行ったのである。
何か川上音二郎一座を思わせるが、馬場はまずは日本への関心を引き起こし、自由民権運動を宣伝しアメリカの世論を味方につけようとしたのである。
当初の講演会は惨憺たるものではあったが、東部に移りボストン・フラデルフィア・ニュ−ヨ−クなどでの講演会にはしだいに多くの聴衆を集めることができるようになったという。
1888年、駐米公使としてアメリカにいた陸奥と馬場がフラデルフイア近郊の避暑先アトランテック・シティ−で出会っている。たまたまその地を通過した馬場の方から陸奥へ処へ来訪したのである。
一方は自由民権からの「転向者」として、他方は自由民権の「亡命者」として出会いである。
しかし滞米中終始貧苦の中にあった馬場は、まもなく投獄期間にわずらった結核が悪化し、古物商を呼び死後の後始末の費用にあてるようにたのんでいる。そして1888年、フラデルィアで39歳で亡くなっている。

ところで馬場はイギリスへ渡っているが、もう一人の土佐出身の中江兆民は岩倉遣外使節団の一員としてフランスにわたっている。中江は後に民権派の論客として主として文筆をもって藩閥政府を攻撃することになる。
中江兆民はパリで五摂家筆頭の西園寺公望と出会い交流をあたためている。二人は意気投合しモンマルトルの居酒屋で飲みかし、西園寺は民衆のために戦ったフランス貴族ミラボ−のようになると意気込んでいたという。
そして西園寺は日本に帰国後、東洋自由新聞を発行し中江兆民を主筆に迎えている。西園寺と中江の異色コンビの新聞はよく売れたのだが、天皇の側近であるべき公卿の有力者が天皇の批判をするとは何事かという意見が強くなり、政府もついに新聞の廃刊を勧告するにいたったのである。
西園寺は頑なに廃刊を拒否したがついには宮内省にまで呼び出され社長を退かざるをえなかったのである。これが西園寺の限界であった。
西園寺公望は先述の陸奥宗光の赦免問題にも関わっており、その後西園寺がオ−ストリア公使の頃、陸奥も外交官としてヨ−ロッパにおり意気投合する仲にまでなっている。1905年の三国干渉の時代には陸奥は外相でこの出来事以降、心身とも衰弱し西園寺が臨時代行として外交を担当するという「めぐり合わせ」であった。
西園寺公望は長州の陸軍軍閥・桂太郎と交互に総理となり桂園時代を築く。その過程で社会主義政党を認めるなどリベラルな側面もみせてはいる。
「東洋のルソ−」中江兆民は、西園寺が伊藤博文の知遇を得て立憲政友会の旗揚げに一役かっていた頃の1901年に55歳で亡くなっている。中江の死により、西園寺公望と中江兆民との言論における対決は避けられたことになる。
後々「最後の元老」とも呼ばれるに至る西園寺にとって、中江兆民とパリで遊び飲み明かした時代は、いかなる感慨をもって胸にしまわれていたのだろうか。