ここでは二つの村の悲劇についてしるしたい。ひとつは宮崎県高千穂郡土呂久村もうひとつは福岡県大刀洗町今村である。二つの村の悲劇は全く様相が異なるが、ただ一つの共通点がある。
二つの悲劇とも村(ビレッジ)で起きたことである。

古代神話の古里である高千穂天岩戸神社からさらに4キロほど山峡を登った山奥深くに土呂久村がある。
この村では約半世紀近く原因も分からぬまま多くの人が亡くなるという悲劇が続いていた。
日本でようやく公害問題が騒がれ始めた頃、土呂久村の48歳の婦人が公害報道をテレビで見て何か胸騒ぎを覚え日記をつけ始めた。そのうち不自由な目と弱った足で村人の健康調査を始めた。それまでは一歩も村の外へ出たことがなかった彼女が宮崎県人権擁護局へ訴えを起こしたのが始まりといえば始まりだった。しかし彼女の訴えは一顧だにされなかった。
一人の新任教師が岩戸小学校に赴任してきたいた。彼は土呂久のの娘と恋に落ち結婚を考えるようになった。しかし彼女が病弱なのが気になった。彼女の小学校時代の記録を知ろうと指導要録をみたところ、そこに見たものは彼女ばかりではない生徒達の異常な欠席数だった。
この村には何か秘密が隠されている、と思った。
そして教諭は土呂久からきている生徒を家庭訪問した時のことを思い出した。生徒は体調不良で欠席が多かったのだが、彼が住む集落一帯が古い廃坑地帯であったことを思い出した。
江戸時代にこの地域は銀山が栄えた時期があったことは聞いていた。しかしその時は静かな山里に戻っていた。
しかし歴史を紐解くと、この山奥の村でおきたことが、実はアメリカのアラバマで起きた出来事とつながっていた。1920年、アメリカ・アラバマの綿花地帯がゾウリムシの被害を受けていた。そしてゾウリムシ撲滅に亜砒酸が欠くべからざることがわかり世界的に亜砒酸の値段が上がった。
そして一人の男がやってきて廃坑になっていた銀山跡から硫砒鉄鉱を採掘し、土呂久川べりに亜砒酸焼き窯を築いたのである。
大正9〜昭和16年と、一時中断の後の昭和30〜37年の約30年間、硫砒鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜砒酸を製造するいわゆる亜砒焼きが行われた。
亜砒酸は農薬・殺虫剤・防虫剤・印刷インキなどに使用された。 亜砒焼きが始まると、土呂久の谷は毒煙に包まれ、川や用水路に毒水が流れ、蜜蜂や川魚が死滅し、牛が倒れ、椎茸や米がとれなくなった。
実は教諭は、土呂久から岩戸小学校に通ってくる生徒達の体位が他にくらべて劣っていることにも気がついた。そして他の教諭とともに土呂久住民の健康調査に取り組んだのである。
各家庭に配布した健康調査表が回収されるにつれて、土呂久地区の半世紀にわたる被害の実態が明らかになっていったのである。
そして1971年1月13日、岩戸小学校の教師15人の協力による被害の実態が教研集会で発表された。
1975年に公害訴訟が起こったが1990年にようやく和解が成立した。認定された患者は146名、うち死者70名(1992年12月現在)を数えている。

広漠たる田園風景の中、福岡県大刀洗町近くを通ると巨大な建造物が飛び込んでくる。
太刀洗のカトリック教会である。 この大刀洗には特攻隊の歴史だけではなくもうひとつの悲しい歴史があった。
 江戸時代にキリスト教は禁制になり、ここ太刀洗にもキリシタン弾圧の嵐がふき荒れた。
今村カトリック教会自体が殉教者の墓の上にたてられたものであり、周辺のジョアンの殉教碑の記念碑なども弾圧の歴史を物語っている。
ここ今村の信徒達がどのようにしてこの地に根づいたのか定かではないが、島原の乱(1637年)で弾圧をうけた信徒達がこの村に逃れてきた事がその始めであったと伝えられている。弾圧の中、多くの信徒が隠れて信仰を守った。
日本が開国すると、鎖国によってキリシタンが弾圧された日本にキリシタンが今なお存在するかは、ローマカトリック教会の最大の関心事であった。
明治の新政府になっても依然としてキリシタン弾圧は続き、その多くが山口県津和野の乙女峠にある寺にキリシタンは送られた。ここで多くの信者が殉教したことが伝えられている。
1867年2月26日、浦上の四名の信徒により今村の潜伏信徒が発見され、浦上の信徒とひそかに交流を保ちながら信仰を守り通した。
   そしてロ−マカトリック教会は、調査のために幕末から明治の初期に宣教師をおくりこんだ。 しかし大刀洗のキリシタンにとっての本当の悲劇は、江戸時代のキリシタン迫害のために幾人かの殉教者をだしたということではなかった。
 それ以上に悲劇的だったことは、この地を訪れた外国人の宣教師により大刀洗の信者達が「汝らキリシタンに非ず」と宣言されたことであった。
 実は太刀洗の信者達は陸の孤島のような処にいたのである。宣教師も来ず他の地域の信者との連絡もないのような場所で信仰を守り続けたために、その信仰が土着化し本来のキリスト教信仰とは相容れないようなものに変容していたのだ。
 そこで明治時代にキリスト教が解禁になると、信仰の建て直しとなんとか誇れる教会堂をという人々の願いからドイツ人宣教師らのはかりしれない努力によって建造されたのが今村カトリック教会である。
ロマネスク様式赤レンガ造りの現教会は1908(明治41)年に本田保神父により計画され、諸外国、特にドイツからの寄付、信徒達の労働奉仕のうえ1913(大正2)年に完成した。

何れの悲劇の背景にも村の地理的な閉鎖性や外部情報との遮断を感じさせる。
歴史を縦覧すると、土呂久は日本神話の古里すぐ近く、太平洋戦争時の特攻隊の飛行場とカトリックの今村は近接している。
もちろん土呂久の新任教諭にせよ、明治になって今村にやってきた宣教師にせよ、村にとって救いの「めぐり合わせ」ではあった。
しかしこの二つの村の悲劇を考える時、心の澱がなかなか消えないのはなぜだろう。
一つはあまりにも長い村のまどろみ。
もう一つは、聖域であるはずの場が毒や血(戦)で彩られたこと。