親子ほどの年齢が離れた男女が、それぞれの危機のときに助け合い、そして女は若い男の死を看取る。こうした「めぐり合わせ」に生きた二人の間には、同志の絆を超えて親子の情が芽生えていたのではなかったかと思う。

1970年代の終わり頃、横溝正史ブームの中で石坂浩二主演の「獄門島」が上映されていた時期、私は福岡の糸島にある姫島が江戸時代の「獄門島」であったという話を聞いた。
その時、「獄門島」という言葉の響きとともに「ノムラモウトウニ」という聞きなれない人物の名前が記憶の底に沈んでいたのである。
それから10年後、私の姫島が浮かぶ半島に勤めることなったため、かつてより興味を抱いていたこの島を訪問する機会をえたのである。そして「ノムラモウトウニ」がこの島に幽閉されていた野村望東尼という勤皇の女流歌人であることを知った。
 ところで石坂浩二が主演した映画「獄門島」のロケ地をインターネットで調べると瀬戸内海に浮かぶ六島であることがわかった。岡山県の笠岡に面したあたりにある周囲約4キロの小島である。
しかしこの島はあくまでも「獄門島」のロケ地であって、本当に獄門島であったことはない。  玄界灘に浮かぶ糸島の姫島は、この六島とほぼ同じ大きさの島である。玉姫伝説からその名前がついたという。
「獄門」という言葉の響きとは裏腹に、ここに住む人々はとても優しい海人で、人々は玄関に鍵をかけることもなく生活し、毎朝フェリーで届けられる新聞を中学生が交代で配達していると聞いた。
江戸時代末期、諸藩は幕府方(公武合体派)につくか朝廷方(尊王攘夷派)につくかで揺れていた。また朝廷内部では一時、尊王攘夷で藩論を固めた長州藩と結びついた公家が優勢をしめたが、1863年8月の公武合体派のクーデターで尊攘派公家7人が追放となり7人は一旦は長州に逃れた。
1864年京都での勢力回復をめざす長州藩と朝廷を守る公武合体派の薩摩藩・会津藩との間で京都御所周辺で戦闘がおこった。
長州藩はこの戦いに敗れ、その後幕府方15万の大軍によって長州藩が包囲されることになった。
この時、長州藩に謝罪恭順を求めて内戦の回避をめざす周旋活動が他藩にさきがけ福岡藩によって単独でなされるのである。
 そして幕府方の解兵の条件として五卿(七卿のうち1人脱出1人病死)の長州藩からの移転が命じられたのである。そして五卿を九州の五藩が一人づつあづかることになり一旦五卿は福岡の大宰府に移されたのである。
 福岡の大宰府天満宮境内には三条実美ら五卿が滞在した延寿王院があり、近くの二日市温泉周辺には多くの五卿滞在の記念として五卿の歌碑がたっている。幕府にとって、五卿を預かる福岡藩・勤皇派の動きは気になるところであった。
 福岡藩としては幕府を気兼ねから、1865年6月、勤皇派の一掃を決意した。特に福岡藩中老で勤皇派のシンボル的存在・加藤司書は自宅謹慎後、12月に切腹の命令が出されている。またその自宅(平尾山荘)が勤皇派のいわばアジトと化していた野村望東尼に対しては自宅謹慎が決定した。
野村はこの平尾山荘で平野国臣ら勤皇派との交流をもつが、その手紙のやり取りのなかには和歌 が多く歌われ勤皇の歌人とよばれた。福岡市西公園に像がある平野国臣も同じく勤皇の歌人といわれる人物であった。
野村望東尼はその年の11月、玄界灘に浮かぶ糸島半島沖の姫島の座敷牢に幽閉された。
この 実際に姫島に行ってわかったことは、この座敷牢の近隣の人々が監視人の目をかいくぐって食事をとどけたりしたそうである。変わりに望東尼は詠んだ歌を短冊に書いて渡した。そうした短冊をいまだに持っていいる家や、尼が使ったあんかを家宝のように保管している家もあった。 
 筑前の勤皇の志士・籐四郎は、姫島流刑中の野村望東尼の救出を決意し病床にあった高杉晋作と相談したところ、晋作は即座に同意し6人の救出隊を編成した。
かつて高杉晋作は、長州藩の保守派優勢のため失意にあった頃、野村望東尼の平尾山荘にかくまわれた時代があったのであり、この野村望東尼救出作戦は、高杉晋作のささやかな恩返しでのあった。
救出隊は1866年9月姫島に潜入し無事、尼を救出した。そして望東尼救出の船は下関に着き、尼は倒幕派のスポンサーであった白石一郎宅に落ち着いた。
しかしこの頃、高杉晋作の病の床にあり病状は思わぬ早さで進行していた。晋作危篤の知らせに望東尼にも馳せつけたが、晋作は間もなく死をむかえた。
晋作は「おもしろき こともなき世をおもしろく」と詠み、それに応えて望東尼は「すみなすものは こころなりけり」と歌い晋作の最後を看取った。
この時、尼と若い晋作にはどのような感情がはぐくまれていたのだろうか。
野村望東尼は1828年 福岡地行の足軽の家に生まれた。母の死、長男の病苦による自殺、次男の病死、夫の死と相次ぐ不幸の後、望東禅尼と号した。
そうした彼女の人生を見る時、尼は晋作に息子の像を重ねていたのではないかと思うのである。