私は以前務めていた福岡県のある県立高校ので、額縁に収められた森戸辰男の揮毫「自主積極」の文字を見たことがある。
森戸辰男は戦後、日本国憲法草案づくりにも携わり戦後初の文部大臣に就任している。さらに 広島大学学長に就任し教育問題などにも多くの提言をされてきた。私には保守的な人物に映ってしまうのだが、戦前は森戸事件という筆禍事件を起こした経歴をもっている。
戦前の森戸の専門は、ドイツ歴史学派にもとづいて自由主義経済の資本主義的矛盾を是正せんとする社会改良主義的な「社会政策」を志向するものであった。
その後、法科大学より独立した経済学部の機関学術雑誌「経済学研究」創刊号に「クロポトキンの社会思想の研究」を寄稿した。しかし同論文が、大杉栄等の無政府主義を鼓吹するものだとして批判され、東京大学を休職処分となった。
この問題は、新聞等により流布したため非常に大きな反響を生み、本は発禁処分となり、森戸と発行責任者の大内兵衛は朝憲紊乱罪で起訴されたのであった。結局、森戸は裁判で禁固三カ月の判決をうけ森戸は、巣鴨監獄に入り、東京大学を去ったのである。1920年に起こった世に言う「森戸事件」である。

実は私がかつて勤務した高校というのは、1923年甘粕事件により殺害された無政府主義者・大杉栄と伊藤野枝の娘2人が通っていた学校(当時は女学校)なのだ。
彼女達の両親が関東大震災のどさくさの中、殺害されたのも実は、森戸辰夫が戦前に翻訳し紹介したクロポトキンの思想に強く影響され「無政府主義」を鼓吹したからである。
そして亡くなった大杉の子供達が通っていた高校の校長室に、森戸辰男の揮毫が飾られているという「めぐり合わせ」に何か目に見えぬ力を感じたのだ。
大杉の遺児達が育てられたのはその高校から4キロほど東の今宿海岸で大杉の妻・伊藤野枝の実家がそこにあったのである。さらにそこには、大杉栄の戒名のない墓もあった。小説家の瀬戸内寂聴は野枝を主人公にして「美は乱調にあり」を書いている。
 1923年、大杉栄と夫人の野枝、そしてたまたま遊びにきていた甥の三人は、関東大震災のドサクサの中、憲兵隊により殺害された。この事件はその時の憲兵隊・隊長の甘粕正彦からとって「甘粕事件」という。
 清朝最後の皇帝・溥儀を描いた映画「ラストエンペラー」の中で坂本龍一が演じた満州国の黒幕つまり溥儀を影で操る男「アマカス」こそは、大杉夫妻を殺害したのはこの甘粕正彦である。
 甘粕正彦は、大杉夫妻殺害後、軍法会議にかけられ有罪10年の懲役となり千葉刑務所に服役した。しかし態度優秀に加えて皇室の慶事による大赦によって3年で出獄しフランスにわたり、その後満州映画会社総裁として復帰したのである。
 そして夫妻の4人の幼子、魔子・エマ・ルイ・ネストルのうちルイと違いの姉エマとが今宿の野枝の実家で祖父母に育てられたのである。

 ところで、この高校の古い学校新聞などでこの森戸の揮毫について調べてみたところ、広島大学の学長であった森戸氏から広島大学の卒業生であったこの高校の校長に送られたことがわかった。
つまりとても単純な話であったのだ。恩師より、かつての教え子が立派に県立高校の校長になったことを祝って、その高校の校訓を書いた揮毫を送ったというのはごく自然な話である。
ただ私は故・大杉伊藤夫妻の目に見えぬ力がこの揮毫を呼び寄せたとまではいわなくとも、この揮毫にはもっと深い意味が込められているような気がしている。
もちろん森戸と大杉に「無政府主義」という共通項があったにせよ、学窓に生きる森戸と野に生きる大杉とは、あまりにも世界が隔たっており接点は全くない可能性が高い。
ただし森戸氏は、この校長の故郷である糸島が同時代を生きた無政府主義者大杉栄や伊藤野枝のゆかりの地であることは当然ご存知だったであろう。
 ところで森戸事件のあと、渡米後に社会主義に傾倒していた小説家の有島武郎が森戸に慰労の手紙を送ったことにより、森戸と有島との交友が始まっているのである。
私は永畑道子の小説を映画化した「華の乱」を見たことがあるが、黒マントの大杉が有島の邸宅を自由に出入りしていたシ−ンが描かれている。
とすると有島を介して森戸と大杉が全く面識がなかったともいいきれないのではないか、と思うのである。
少なくとも広大学長となった森戸氏が、広大出身のこの高校の校長に、校長就任のお祝いの意味をこめてこの揮毫を送られたにせよ、かつて大正期の世情をにぎわせた甘粕事件で糸島郡の今宿村に葬られた大杉栄や伊藤野枝のこと、そしてこの高校で学んだ彼らの遺児達のことがきっと心の中を駆け巡ったに違いない、と思うのである。
元・文部大臣と故・無政府主義者の時を超えた「めぐり合わせ」である。