「矛盾」「 強迫観念、妄想」「羨望」「強情っぱり」「 禁断」「 阿片」「 爆薬」「 優しい毒」
以上の言葉は何れも世界的に良く知られた香水につけられた名前の日本語訳である。香水にはあまりポジティヴな名前似つかわしくないということがわかる。
「健康」や「幸福」などという名前がついた「香水」はあまりうけないにちがいない。
健全な名前はむしろ煙草のような商品に向いている、と思ったりするもする。 結局、香水の名前にはどこか「魔」とか「眩」とか「惑」の要素が含まれないといけないらしい。
世界的に有名な香水の名前の中に私は「MITUKO」という日本人女性の名前を見つけた。その名前には「魔」とか「眩」とか「惑」の要素はないのだが、それとも外国人には東洋の女性の名前それ自体「魔」の要素を含んでいるのだろうか。
この香水の名前「MITUKO」の由来について調べてみた。

1874年、東京牛込の骨董商の娘に青山光子という女性がいた。ある冬の日この骨董屋の前で氷水に足を滑らせ怪我をした外国人の世話をしたのがきっかけとなる。
その後の展開を見るとこのハプニングは「めぐり合わせ」という言葉が最もふさわしい。
この外国人男性はなかなかの人物でオ−ストリア大使として日本を訪れていた人物であった。
青山光子は日本人女性にしては背も高く教養もあり、お互いに美術面での趣味を共有し、二人は恋に落ちる。二人の結婚話となり、親はもちろん親戚一同猛反対したうえさらに夫の名家カレルギ側が圧力をかけ結婚を認めなかった。 しかし3年後二人は反対を押しけりめでたく入籍することになる。この時、二人の間には既に「光太郎」「栄次郎」(映画「カサブランカ」のモデルとなる)という子供がいた。
まもなく夫に強制帰国命令が出るや、悩みに悩んだ光子は遠く離れたオーストリアに移住する決意をする。カレルギ家の領土はオーストリアのボヘミア地方にあり、光子は十数人の使用人のいるロスンベルク城で7人の子供と優しい夫に囲まれ幸福な日々を送った。
しかし1906年、夫ハインリッヒの突然の死により庇護者を失った彼女は、異国の地で一人で生きていかなければならなくなる。夫の遺書には財産すべてを光子に譲渡するとなっていたが、当然親戚一同は日本人女性などに財産を渡さないように裁判まで起したが、光の毅然とした態度でこの裁判にも勝訴した。
光子という女性の優れた点は、子供達の教育にあり、その教育理念は子供達に残したおおくの手紙にある。日本の明治思想と欧州の理念を融合させた厳しくも優しい教育理論は上流階級をはじめヨ−ロッパでも高い評価を得ている。
光子はすべての子供たちを名門学校に入れて、カレルギ家の伯爵夫人として日本人として初めてウィーンの社交界に登場する。彼女の凛とした立ち居振舞いから「黒い瞳の伯爵夫人」としてその華麗さは社交界の花形となっていく。
彼女のことが噂にひろがるにつれ、フランスのゲラン社は「MITUKO」という名の香水を発売するのである。

1914年に第一次世界大戦勃発するが、敗戦国オ−ストリアの光子は財産を日本を含む敵国に奪われる。皮肉な「めぐり合わせ」である。
その後光子はウィーン郊外で晩年を過ごし病と闘いながらもカレルギ家の復興のため尽力した。オ−ストリアでの45年間とうとう一度も日本に帰国することなく1941年に67歳で亡くなった。
ところで息子の”栄次郎”は、1923年に著書「パン・ヨーロッパ」を発表した近代におけるEU(欧州連合)の提唱者として知られた人物リヒャルト・クーデンホーフ・カレツキである。
彼の姿を迂回的に映像で見ることができる。彼は映画「カサブランカ」でポール・ヘンリード演ずる反ナチス抵抗運動の指導者、ヴィクター・ラズロのモデルとなった人物であるからだ。ラストシーンではイングリット・バーグマンとともに飛行機で逃れる人物である。

リヒャルトは母についてこう述べている。「彼女の生涯を決定した要素は3つの理想、すなわち、名誉と義務と美しさであった。ミツ(光子)は自分に課された運命を、最初から終わりまで、誇りをもって、品位を保ちつつ、かつ優しい心で甘受していたのである。」
インタ−ネットで調べると香水「MITUKO」は、「気品あふれる香水で大人の女性に愛される」とあった。