名声の裏側


数年前に私は、肉親の病により集中治療室というものにに頻繁に通ったことがある。集中治療室では多くの患者が人工的な機器の中に即物的に埋められている。この頃おこった阪神神戸大震災のテレビ映像も重なって、日常性というものが突然断ち切られてしまった現実をまざまざと突きつけられた様な思いがした。
集中治療室の中では肩書きも経歴も徳も不徳も意味をなさない。そしてなにか「戦場」というものを思いうかべた。いずれにせよ心の奥底に眠った何かを呼び起こされる体験であった。
 同じ時期に「傷つきいまや死なんとするものには敵も味方もない。倒れた者に人間としての処遇を与えたい。」と考えた人達がいた。
 デュナンとナイチンゲールという同時代を符節を合するように生きた男女がいた。二人は多くの共通点を持ちながらも直接の面識はなく、また互いに後半生は必ずしも名声にふさわしい人生を送ったとはいえない。
ナイチンゲールは英国上流家庭の娘として生まれ、親たちも上流社会での彼女の幸せを夢見ていた。当時、良家の子女が職業婦人になりには多くの困難があった。しかし神の声を聞いた彼女は看護婦になる決意をした。
1854年ロンドンタイムスの特派員によりクリミア戦争の前線での負傷兵の扱いが後方部隊で如何に悲惨な状況であることを伝えられると、事態を重くみたシドニー・ハーバード戦時大臣はナイチンゲールに戦地への従軍を依頼する。ナイチンゲールも自ら看護婦として従軍する決意を固めシスター24名、職業看護婦14名の計38名の女性を率いて後方基地と病院のあるスクタリに向かった。
 そこで彼女は病院の便所掃除がどの部署の管轄にもなっていないことに目をつけ、まず便所掃除を始めることからはじめていった。そして兵舎病院での死者の大多数が傷ではなく、病院内の不衛生や感染症によるものと推測した。
また官僚的な縦割り行政の弊害から必要な物資が供給されていなかったことなどを指摘し、病院内の様々な政治的闘争にさらされながらも自分の見解を提起していった。そして彼女は「ランプを持った天使」の名声を得た。
1856年4月29日クリミア戦争は終結し、ナイチンゲールは自身がとまどうほど国民的英雄として祭り上げられていることを知った。彼女はこのことを快くは思わず、スミスという偽名を使用して人知れず帰国したほどである。その時37歳、彼女はその後虚脱状態に陥り10年もの間病床で生活をしている。彼女は何かの罪の意識にさいなまれていたという説もある。
現在、聖トーマス病院にナイチンゲール博物館がある。1910年8月13日永眠。墓石には故人の意思により、ただ「F. N. Born1820. Died 1910」とだけ記された。

 スイス人のアンリー・デュナンは1859年6月、フランス・サルディニア連合軍とオーストリア軍の間で行われたイタリア統一戦争の激戦地ソルフェリーノの近くを通りかかり4万人の死傷者が打ち捨てられているという悲惨なありさまを目撃した。 デュナンは、すぐに町の人々や旅人達と協力して、放置されていた負傷者を教会に収容するなど懸命の救護を行った。
 ジュネーブに戻ったデュナンは、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語り伝えるとともに1862年「ソルフェリーノの思い出」という本の中でナイチンゲ−ルを高く評価し敵・味方もない傷病者の救護の必要性を訴え、それをいつでも実践できる世界的な組織としてまとめあげる必要性を訴えた。
、この訴えはヨーロッパ各国に大きな反響を呼び、1863年赤十字国際委員会の前身である5人委員会が発足した。そして戦場の負傷者と病人は敵味方の差別なく救護すること、そのための救護団体を平時から各国に組織すること、そしてその目的のために国際的な条約を締結しておくことをとりきめた。
ところでデュナンは、赤十字創設に没頭のあまり本業である製粉会社の経営に失敗し、1867年、39歳の時、破産宣告を受けて放浪の身となり、いつしか消息を絶ってしまった。デュナンは人生の後半生をほとんど放浪者としてヨーロッパ各地をめぐったようである。
1895年、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある養老院でデュナンを見つけ報道した。デュナンはこの時すでに70歳になっていた。そして1901年に赤十字誕生の功績が認められ、最初のノーベル平和賞をおくられた。その後デュナンは、ロシア皇后から賜った終生年金だけで余生をおくり、1910年10月、ハイデンの養老院で82年の生涯を閉じたのである。

日本でアンリ・デュナンの理念に感銘し赤十字の前身・博愛社を創立した人物がいる。佐賀県川副町早江津出身の佐野常民である。
 かつて適塾で学んだ人命尊重の精神やパリ博覧会で出会った赤十字の出品である救急用馬車,タンカ、医療箱などに刺激された佐野は、西南戦争の田原坂の惨状を知るや恒久的救護組織の必要性を唱え、征討総督の有栖川宮熾仁親王に直接、博愛社設立の趣意書を差し出すことに意を決し、熊本の司令部に願い出た。1877年5月1日征討総督の有栖川宮は、賊軍の兵を救うことに抵抗する機運もある中で、英断を持ってこの博愛社の活動を許可した。
   救護活動の許可を得た博愛社の救護員は、直ちに現地に急行し官薩両軍の傷病者の救護にあたった。そのかたわら、水俣をはじめ地域的に発生したコレラ流行地にも救護員を派遣して予防と手当に努めた。博愛社の救護員は、直ちに現場に急行し、官薩両軍の傷病兵の救護にあたった。そのかたわら、水俣をはじめ地域的に発生したコレラ流行地にも救護員を派遣して予防と手当につとめた。
この博愛社の活動は単なる傷病者の救護という範疇を超え人道、博愛という精神文化の基礎をその実践を通じて日本に根づかせるものであったものといえる。
 西南の役が終わるや博愛社の存廃が問題となった。政府内で緊急事態の場合に迅速機敏な救護活動を行うには普段からの用意が必要であるという意見が強く、新たに社則を定めて小松宮彰仁親王を初代総長に、佐野、大給両人を副総長に推して、博愛社を恒久の救護団体とした。
1866年に日本政府がジュネーブ条約に加入するや翌1887年には名称を日本赤十字社と改称し1887年5月、佐野は日本赤十字社初代社長に就任した。そして同年9月2日には、赤十字国際委員会の承認を得て正式に国際赤十字の一員に加わった。
その後佐野は1902年日本赤十字社創立25周年記念式典を機会に社長を松方正義に譲り、その後病床に伏し同年12月7日79年の生涯を閉じたのである。
ところでこの佐野常民にも、伝記作家が首を傾げたくなる謎のエピソ−ドがある。若き日、伊藤玄朴の塾の塾頭を勤めた頃、洋学を学ぶ学生とって命にも代わるべき辞書「ハルマ和解」二十二巻を質に出してしまったのである。彼はついにその金の使い道を語らず塾を出た。高橋克彦の小説「火城」は佐野がそれまで係わった人間関係の中から、蛮社の獄で追われた高野長英の逃走資金ではなかったかという説を出しているが、真相はわからない。
赤十字運動に関わった三人の人物の名声の裏側に人間臭さを感じさせる三様のエピソ−ドである。