アメリカのどこかの本屋に立ち寄りそこで見かけたコミック・マガジンを手に取ってみるとよい。アメリカンコミックと日本のマンガとの相違が一目瞭然であるはずだ。
まずキャラクタ−がスパ−ダ−マンにせよス−パ−マンにせよ現実の人間と同じ体型であり、全体として極めて写実的に描かれていることに気づく。
アメリカ版セ−ラ−ム−ンからは可憐さが消えむしろリアルな女性に生まれ変わっている。
アメリカ版ゴジラを見ると、日本のゴジラがもつある種の威厳が消え去りすっかり爬虫類に成り下がっているのを見てきっと失望するはずだ。
日本からのマンガ・フィルムなどの文化輸出に伴なうキャラクタ−像の変化は、それ自体奥深い比較文化論に通じると思うが、浅学にしてそれをしっかり論じるだけの論拠をもたない。
そこで閃いたことをいくつか以下に敷衍したい。
 まず日本の漫画のキャラクタ−には四頭身だったり異常に目がパッチリしていたりといった強いデフォルメがある。そしてシンプルな線によってかなりユニ−クな個性が表現されている。そして漫画という世界が現実を写すのではなく独自の世界をつくり他のメディア世界とは一線を画しているような気がするのだ。
 スパ−マンやスパ−ダ−マンやバットマンは今日の高いSFX技術をもっていさえすればそのまま映像化が可能だが、例えば日本の「天才バカボン」などをそのまま映像化することは想像さえすることができない。
 海外での日本アニメの人気の秘密の一つは、キャラクタ−の「強さと可愛らしさのアンビバレンツ性」であり、ジャパニ−ズ・アニメのコスプレの集まりなどもフランスやアメリカで行われていると聞く。
強い者や美しい者だけがヒ−ロ−やヒロインの条件ではないことを日本のマンガが教えてくれている。

 日本のマンガの歴史的背景を見ると、まずキャラクタ−のデフォルメということに関しては江戸期の浮世絵、シンプルな線ということになれば能面や人形浄瑠璃が思い浮かぶ。
 また日本人がもつアニミズムの傾向もマンガ文化にプラスに働いているのではないかとひそかに思っている。アニミズムとは木や岩などのモノに霊魂(アニマ)が宿るという意識で、アニメ−ションという言葉自体も元はこの「アニマ」からきているのである。
そこで日本ではモノがマンガのキャラクタ−になっても一向に平気なのだ。「アンパンマン」にせよゲゲゲの鬼太郎の「いったんもめん」にせよしかりである。そしてモノがキャラクタ−になる時には当然にかなりのデフォルメを生む。少女の異常に大きな目に星が瞬いたりする絵も結局は、アニマを宿したお人形が紙面の中で動き廻っていると思ってみたらどうだろう。
アメリカのマンガで背景の木が笑ったり岩が泣いたりするシ−ンは見ることもあるが、日本のマンガのようにモノが擬人化されて中心的な役割を果たするものはあまりみたことがない。
 しかし日本のマンガが海外で支持されている理由はこうした絵画的要素ばかりではなく、むしろスト−リ−展開の面白さにあるといわれている。
日本の文化の中にはかなり昔から「物語り文化」が根付いていた。御伽草子(室町)・仮名草子(江戸)・紙芝居(明治)・立川文庫(大正)などの流れである。日本のマンガ文化におけるスト−リ−展開の面白さにはこうした歴史的背景があるのかもしれないとは思う。
しかしいかなる背景があったにせよ、日本マンガの海外での人気の源泉に手塚治虫という一人の天才がいたことを抜きにしては語れない。
手塚が目指したのは小説や戯曲などの歴史的名作に負けないマンガつまり壮大なスト−リ−性をもつマンガであった。また地元大阪の宝塚歌劇にも影響をうけ、そのスト−リーの中に悲劇的要素も多く見られる。
手塚の作品はには、日本人の多くが好む根性物語や立身出世的要素は見えず、スポ−ツマンガに見られる友情やチ−ムプレイが見られるわけではない。意外なことに手塚は「鉄腕アトム」以外は人気で一位になったことはなく「火の鳥」や「ブッダ」「ブラックジャック」など大衆受けするには洗練されすぎた作品であったともいえる。
一位なれないもどかしさが彼のスト−リ−展開をさらに磨き、単純な勧善懲悪的なものではなく悪の側にも理があり弱点があるといった厚みをもったキャラクタ−が創出されていく。また描画の技法においても新しいものを取り入れていくことに抵抗はなかった。
手塚治虫は、1960年代半ばマンガ製作の方式においてもプロダクション方式である「虫プロ」をうんだという点も特筆すべきことだと思う。
私は、このプロダクション方式は、江戸時代の最高の芸術家といっても過言ではないは本阿弥光悦の「芸術村」を思い出すのだ。
本阿弥家は刀剣の家である。室町時代には足利氏に仕え刀剣の鑑定、研磨・浄拭を家業としてきた。光悦は京都人であり江戸嫌いで知られていた。そして家康により洛北鷹峰の地に土地を与えられた。鷹峰は、辻斬り・追剥が出る治安の悪い土地であった。
家康が彼にその地を与えたことに深い理由は分からないが、少なくとも光悦は移住を強制され京都に住むことを許されなかった。一族だけでなく、絵師、蒔絵師、神筆職人、陶工など本阿弥家にゆかりがある人達が集まったので自然ここに「芸術村」が誕生した。
彼の周囲に集まった人々は芸術家というよりもむしろ職人にすぎない人々であり、本阿弥光悦はプロダクションのいわば総合プロデューサーなのである。
光悦芸術の粋は「茶碗」と「書」といわれるが、完成した作品の一体どれだけが光悦自身の手によるものかは判別しがたいのである。
こういう製作の有り様は、マンガ・プロダクションにおける製作現場を思わせるものがある。
マンガ家を目指す人々はマンガ家になるために、先生に師事して仕事を手伝いながらデビューを目指すのではなくはじめからアシスタントという職業を選ぶのである。かつての徒弟制から組織へと移行したのである。
組織になった以上、漫画家は組織を支えるために描かなければならないし、作品はアニメ化、テレビ化されなければならないのである。売れなければマンガ家一人だけではなく皆が路頭に迷うという時代がきたのである。
手塚治虫というマンガ家は様々な「めぐり合わせ」に恵まれた人だった。彼が若き日に東京豊島区椎名町のトキワ荘でに共に暮らした仲間達、石森章太郎・藤子不二男・赤塚不二男らはいずれも漫画世界の大家として名を記すことになる。
手塚が「核の時代」に生きたという「めぐり合わせ」があの「鉄腕アトム」を生んだと今にして思うのである。