一瞬の閃きが世界の街角を変えた。それはレイ・クロックとカ−ネル・サンダ−スに走った一瞬の閃きだった。
ロサンゼルスから東へ90キロ離れたサンバーナーディーノの街にドライブインをつくってハンバーグを売っていた店があった。メニューはハンバーガー、フライド・ポテト、シェイクなどわずか9種類のみであった。
客席はとり払ってあり、紙やプラスチック製の食器が使ってあった。ハンバーガーの調理は流れ作業となっていたため価格は安く客は1分以内にハンバーガーにありつくことができた。
この店の価値が見出されるある「めぐり合わせ」があった。1954年にこの店に一人のセールスマンが訪れたのである。
52歳のこの男は、ミルクシェイク用のミキサーを売りにきていたが、このマクドナルドという名の兄弟がきりもりする店を見たときに霊感のようなものが走った。この店がありとあらゆるアメリカの交差点に立っている様子が頭の中を駆け巡ったのであった。
レイ・クロックは高校を中退し15歳から働き出し楽器店を開いたり、紙コップのセールスマンとして働いたこともあるが、彼の閃きにはそうした経験に培われた鋭さがあった。
そして彼の閃きは現実のものとなったのである。

ところで戦後まもなく東大生の山崎晃嗣が設立した高利貸し業「光クラブ」が破綻した。山崎が青酸カリをあおり服毒自殺をしたその頃、同じく東大在学中に貿易会社をおこした男がいた。1950年に輸入雑貨販売店「藤田商店」を立ち上げた藤田田(ふじたでん)である。
この時彼は24歳になっていた。藤田は小学生のころ成績は優秀だったが、教師に嫌われたために内申が悪く一浪して北野中学に入学した。
母親がクリスチャンで「口」に「十字架」で静かな子、という意味で「田」という名前をつけたとされている。他方、よくしゃべる子で黙らせようと「口」に「×(バツ)」を入れたという俗説もあるくらいである。(少し村上ファンド氏に似ているかも)北野中学では手塚治の同級生だったという。
藤田の最大の「めぐり合わせせ」は、日本におけるマクドナルド社のハンバーガー店展開の権利の取得の戦いである。大手スーパーや商店が続々とマクドナルド社を訪れ、日本におけるフランチャイズ権の獲得を画策していた。
大企業でもない藤田が並み居る大手を押しのけマクドナルド社よりパートナーとしての指名を受けたのは、通訳を必要としない英語力と学生のころから養った国際感覚だったといわれている。
1971年に銀座にマクドナルド1号店が誕生した。郊外に1号店を創ってはと言われたが、銀座に拘ったのは、銀座が流行の情報発信基地であると踏んだ藤田の発案によるものであった。
好調に店舗数を伸ばしたマクドナルドも2001年に創業以来初の赤字となり2002年7月には、藤田は社長を辞任した。
日本マクドナルドの経営から退いた後は、公の場に出る事は少なくなり、2004年4月21日、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年78歳であった。

カ−ネル サンダースは家を助けるため10才から農場に働きに出た。学歴といえば6年生の終了証だけ。その後は独学で学びながら機関士、判事助手、保険外交員、フェリーボートなど40種もの仕事に就いている。
そして30代後半にタイヤのセールスをしている時に出会った石油会社の支配人から勧められてガソリンスタンドを始めた。
そして1930年6月ガソリンスタンドを利用する人たちのために物置を改造して6席だけの小さなカフェを造った。自慢の息子を亡くすという不幸を乗り越えながら、スタンドはサービスの良さで、カフェは味で評判となる。その目玉となったのが独特なフライドチキンだった。
しかしよき日は長くは続かなかった。新しいハイウエーの建設により車の流れが変ってしまい維持できなくなった。店を手放し、負債を支払ったカーネルの手元にはいくらも残っていなかった。その時65歳になっていた。
彼の財産といえばフライドチキンの調理法だけだった。
思いあぐねていた時、彼は「チキンのレシピを売ろう」と一瞬閃いた。
そして1939年にチキンのオリジナル・レシピを完成させ、レシピを教える代わりに売れたチキン1羽につき5セントを受けるというフランチャイズ・ビジネスを始めた。
フライドチキンをワゴン車に積んで各地を回りその調理法を教えて歩合をもらうというアイディア商法であった。
どのレストランにいっても断り続けられたがついにカ−ネル・サンダースはあるレストランでレシピを受け入れてもらうことができた。 これがケンタッキー・フライドチキンの始まりとなった。
カ−ネル サンダースが73才で引退する時にはチェーン店は600店を超えていたという。1964年74歳になったのを潮時にこの商売の権利を他に売却し第一線から退いた。
しかし、チキンの味は変わることなく今に受け継がれている。1980年、肺炎のため90歳で逝去した。