民俗学が織り成す人間模様


民族学について私はほとんど知らない。ただ民俗学の発展に尽くした人々の繋がりに興味はつきない。
民俗学といえば大家・柳田国男である。柳田は兵庫県神崎郡福崎町に儒者の家に生まれたものの、体が弱く 12才より茨城県利根町で医院を開いていた兄のもとで2年を過ごし24歳の時、長野県飯田市出身の大審院判事柳田直平の養子となっている。
柳田が山人や漂泊者といった一所不在の人々に関心をもちその研究に力を注いでいるのも自らの境遇と重ね合わせ共感している面が大きいと思われる。
柳田は、農商務省の役人時代の農村調査からしだいに農民の生活の背後にある伝承や祖先信仰などに惹かれて行く。
そして柳田にとって何よりも大きな出会いは佐々木喜善との出会いであった。佐々木は岩手県の裕福な家に生まれ、岩手医学校、哲学館(現東洋大学)、早稲田大学と学ぶがすべて中途退学する。
その間、郷里の土俗を背景にした創作を試み、水野葉舟、北原白秋、前田夕暮などと交際し、水野の紹介により柳田国男と出会うことになる。
柳田は佐々木より郷里の昔話を聞いたことがきっかけとなり遠野の調査に向かい日本民俗学の曙を画する名著「遠野物語」が生まれた。
佐々木は文学的にはあまり成功しなかったものの、その後集めた昔話を「聴耳草紙」として集め、晩年には宮澤賢治とも交友があった。
国語学者の金田一京助は、アイヌ語の研究をアイヌの青年萱野茂の聞き取りによって行っているが、その金田一が、佐々木の「聴耳草紙」に感銘し、佐々木を日本のグリムと賞賛しているのである。

実は柳田国男が「遠野物語」を書いた時、その副題として「外国人に捧ぐ」と書いている。おそらく日本の辺鄙な農村の有り様が何らかの国際的な普遍性を持ちうるという認識があったにちがいない。
柳田のこうした視点は、柳田にとってもう一つの知己である農商務省の先輩・新渡戸稲造との交流があったのではないかと思う。
新渡戸は東京小日向の、「郷土会」という例会をもっていた。国際連盟事務次長を務めるなど国際派のイメ−ジが強い新渡戸だが、その経歴は札幌農学校卒業後、農商務省に勤務しており各地の地誌や習俗などに大きな関心をもっていた。
そこで通称ニトベハウスといわれるほど多くの外国人要人が訪問する自宅で、郷土研究に関する談話会を開いていたのだ。
有識者を招いての郷土会であったが、外国人の飛び入り参加や学生の参加などもありかなり自由な雰囲気で報告・発表などをおこなっている。
新渡戸のこうした強い郷土への関心の背景には、新渡戸が戊辰戦争で賊軍であった南部盛岡藩出身であったことを忘れてはならない。
新渡戸の祖父にあたる新渡戸傳は、幕末期に荒れ地だった灌漑事業と森林伐採事業を成功させ盛岡藩の財政を立ち直らせた人物でもあった。
そしてこの例会には後に地理学の大家となる牧口常三郎などもこの会に出席しており、いわば幹事的役割を果たしていたのが柳田国男であった。
 柳田国男と同じく民俗学の大家といわれる人物に宮本常一がいる。宮本は、柳田が主宰する雑誌で「昔話」の募集をしていることを知り、日頃書きためていたノ−ト2冊分を柳田に送ったところ、柳田はその原稿を高く評価し長文の手紙を書いている。つまり宮本は柳田によって発見されたわけだ。
宮本は移民の島とも呼ばれる山口県周防大島に生まれ、大阪逓信講習所から府立天王寺師範学校二部(現大阪教育大学)を卒業している。学閥とは無縁の処を歩み、小学校に一時勤めるがそれも辞め、生業をもつことなく大半を旅に費やしている。
宮本は病弱でもあり彼の生活の基盤は一体どこにあるのかと不思議な気がしていくるのであるが、実は宮本の民俗学を強力にバックアップする人物・渋沢敬三がいたのである。
渋沢と宮本の出会いは、宮本が柳田国男の記念講習会にでたおり渋沢敬三が自宅に蒐集しているアンチックミュ−ジアムを仲間とともに見学したのがきっかけである。
渋沢敬三は幼い頃から動物学者になりたかったものの、財界の大立物であった祖父・渋沢栄一に日本の経済界には優秀な人材が一人でも必要だと説得され学問の道を諦めている。そして敬三は、日本銀行総裁、大蔵大臣を務めるが、学問への情熱は冷めやらず古くからある各地の玩具などをあつめてアンチックミュ−ジアムとしていた。
宮本は1961年に博士号を取得するまで渋沢の邸宅に居候し、渋沢をして「わが食客は日本一」とまで言わせしめている。渋沢は、宮本常一という学問における自分の分身を身近に置いたというわけである。宮本は柳田に見出され渋沢に育てられることになる。
ただし宮本は、柳田国男とは異なり、漂泊民や被差別民、性などの問題を重視したため、柳田の学閥からは無視・冷遇されたが、ようやくほとぼりが冷めた所で再評価の機運が高まった。
ところで渋沢敬三は他にも多くの研究者に給与や調査費用、出版費用など莫大な資金を注ぎ込んで援助している。
白鳥庫吉、梅棹忠夫、江上波夫、中根千枝、川喜多二郎、今西錦司、らも彼の援助を受けて成長した。
宮本が所属したアチックミューゼアムは、後に日本常民文化研究所となり、神奈川大学に吸収されて日本史を民衆の視点から捉えなおそうとしている網野善彦の活動の場となってきた。網野善彦は2004年2月に亡くなっている。

民俗学の誕生と生成の経過は、関係した人々それぞれの人生を色濃く映しながら、それが織り成す縦横の「めぐり合わせ」がとても面白い。