意外なことに、仏教とキリスト教はわかち難く結びついている、とはいいすぎかもしれないが、キリスト教から仏教へ影響は決して無視することはできない、というのは正しいだろう。
9世紀に空海は、中国(唐)へ渡って真言密教を学んだが、この「真言密教」は当時中国に影響を与えていた様々な宗教の混合宗教であった。空海にとって大きな「めぐり合わせ」といってよいのが、真言密教の立宗者であある不空三蔵がいた中国の首都・長安では、当時、景教寺院、仏教寺院、ゾロアスター教寺院、道教寺院などが軒を並べて建っていたのである。
空海が唐で居住した長安の同じ居住区に、大秦寺という景教(キリスト教ネストリウス派)の寺があり、空海がサンスクリット語の教えを受けた般若三蔵も景教に心酔していたため、空海もキリスト教に関するかなりの知識を得ることができたと考えることができる。
つまり空海が日本にもちかえった真言密教にはキリスト教的要素がかなりふくまれており、(あまり学術的知識はありませんが)景教版「仏教」という言い方もできるかもしれない。
真言密教の儀礼にはキリスト教のそれに似た点が見られる。
弥勒とは、へブル語のメシア、ギリシャ語のキリストであり、原始仏教にはなかった「キリストが再臨するときに復活する」というキリスト教信仰、景教の信仰と同じものです。真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついているとか、景教の影響がみられる。
例えば灌頂(かんじょう)=洗礼、そして儀式の初めに十字を切る点などである。
 そもそも仏教そのものが釈迦のオリジナルの教えを超えて様々な宗教の影響をうけている。この段階でキリスト教の影響をうけているかもしれない。なぜならはキリストの使徒トマスは、インドへ渡ってすでにキリスト教を広めていたからである。
イエス伝とシャカ伝には共通点が少なくない。っとえば処女懐胎伝説、イエスの洗礼とシャカの洗身、両者の修行と悪魔の誘惑などである。「法華経」特に「寿量品」は「ヨハネの福音書」の思想に実によく似ているそうだ。
お盆はユダヤ教で7月15日に行う仮庵(かりいお)の祭などで先祖のために祈るユダヤ人の風習が中国にもたらされたもので戒名の風習も本来の仏教になく、本来は景教の風習だったという。
数珠も焼香も、ユダヤ教から景教へと伝わった可能性が高い。 中国の慈母観音、日本の子安観音の起源は聖母マリアである。
当然、キリスト教的要素が混入した仏教が日本にも混入した。聖徳太子の本名が厩戸王子(うまやどおうじ)などの話は、キリストの生誕譚と重なりあっているではないか。
平安朝半ばに藤原兼輔(かねすけ)が書いた聖徳太子伝にある太子生誕物語は、福音書のルカ伝とそっくりそのままの順序で書かれているという。

 


空海がつくったといわれる「いろは歌」であるが、「いろは歌」は七言絶句に並べ、47文字の「かな」を並べ、しかも深い意味のある一つの歌にしている「天才的」な歌である。
上表の青文字の部分「とかなくてしす」には幾つかの説がある。
これは「咎なくして死す」つまり「罪もなく死んだ」を意味し、これが偶然ではなく作者の意図した暗号であるというものである。
 現代になってある詩人が柿本人麻呂説をとなえ、推理作家の井沢元彦氏が「猿丸幻視行」でそれを発表した。
しかし上記に論じたように空海が、中国で景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を受けたのならば「咎なくて死す」をイエス・キリストの十字架と解することができる。紫文字で示した部分は「イエス」という言葉が配置され「イエス 咎なくて死す」、これを偶然ということができるだろうか。
もちろん、これが暗号だとしても作者の意図までも理解できるわけではないが、作者の信仰表明とみることもできる。

歴史的にどのようにして、キリスト教の思想が大乗仏教の思想の中に混入していったのかについては、紀元1世紀に、イエス・キリストの十二弟子の一人トマスは中国およびインド地方に伝道に行きインドで殉教したと伝えられている。
実際インドでは、すでに2世紀にはキリスト教徒の数もかなりのものになり、3世紀にはキリスト教の団体もあった。
龍樹(紀元150−250年頃)という人物が、キリスト教思想に触れ「龍宮」で法華経を授けられ、その後大日如来に関する経典「大日経」を授かったと主張している。
龍樹が授かったとする大日経も、その内容は太陽崇拝、バラモン教、キリスト教、ゾロアスター教などの影響を受けた混合宗教であることが、歴然としている。
したがってこれらの経典が、誰から授けられたにしても、あるいは龍樹自身の創作によるものであったにしても、彼以後、仏教思想は大きく変貌した。
635年に、ネストリウス派キリスト教徒アラボンは、21人の信徒を率いて中国に渡り、聖書や教理を漢文に訳して、唐の皇帝(太宋)に献納した。
そしてネストリウス派キリスト教が「景教」で、景教は7世紀から12世紀にかけて、中国で栄えた。
真言密教の内容は、明らかに仏教とは異なるもので、そこにはゾロアスター教や、景教、バラモン教などの影響が歴然としている。
空海自身、中国にいたときに、景教に触れる機会があった。空海は、景教徒で「大秦寺」という景教の教会を営んでいた般若三蔵という人物に会い、景教の知識を吸収した。
なんと高野山には、景教碑がたっている。実は現在中国、西安市の博物館に保存されている「大秦景教流行中国碑」のレプリカ(複製品)で、オリジナルは781年、唐の都・長安の大秦寺に建立され、1623年西安で土中より発掘された。
高野山に景教碑のレプリカを建てたのはE.A.ゴルドン夫人という女性である。
1851年イングランドに生れ、日本の文化を愛し、様々な日本を援助する活動を行った。 また日本に長期間滞在して仏教の研究をし、仏教もキリスト教も元は一つであるという「仏基一元」の考えをもつようになった。
「大秦景教流行中国碑」のレプリカを高野山に建てたのも、彼女の研究の一環で、ゴルドン夫人は唐で学んだ空海が景教にも深く関係を持っていたと認識していた。
空海が今一歩景教に踏み込んでキリスト教信者となって日本に帰国していたならば、1549年のザビエルによる「キリスト教」伝来の出来事は少なくとも7世紀は、早まっていたということになる。
些細なことのようで重大な歴史の「めぐり合わせ」である。