「同じ釜の飯」という言葉があるが、「同じ船の飯」というのは、どうだろう。
海外への船旅は1ヶ月から2ヶ月の長旅の中で、たまたま同船した人々との間の共同生活ということになり、映画「タイタニック」のような恋アリ喧嘩アリで、結構な人間ドラマが生まれたりする。
 特にそれが平時でなく戦争という切迫した時代のものであるならば、たまたま同船したという「めぐり合わせ」の舵が、人生航路の上に微妙にはじけた航跡を残したりするのかもしれない。
(横溝正史の小説「犬神家の一族」では引き揚げ船の中で人間どうしが入れ替わったりもしている)

日本の歴史上最も有名な船旅は、岩倉遣外使節団である。明治新政府の中心人物の約半数が1年半もの間海外視察にでかけるという、世界の歴史の中で稀に見るようなことが行われている。
この船の中で同じ長州の木戸孝允と伊藤博文が離反して、伊藤が薩摩の大久保に接近したという話がある。
帰国後、政府の中枢で、大久保に伊藤が重視され、大久保暗殺後に伊藤が実質上、大久保の後継者になったことを考えれば、船上の私事も軽視することはできない。
そういえば坂本竜馬も、後の「大政奉還」のビジョンに連なる「船中八策」を長崎から土佐に向かう船の上で後藤象二郎に発表している。「歴史は船上で創られる」とはいいすぎだが。
同じ船の屋根の下、同じ船の飯を食ったというのも、帰国後に西郷隆盛らの「征韓派」に立ち向かう 結束力をもたらしたのではないかと、やや突飛なことを考えてしまった。
その他、勝海舟の咸臨丸による日本横断や堀江青年のヨットによる太平洋横断などの船旅または冒険 も興味深いものがあるが、最近「日米交換船」のことを知り興味をそそられて色々と調べてみた。

戦争が始まると、国同志の国交が断絶するので交通も断絶する。その場合、よその国にいる人は自分の故郷に帰れないので、「(捕虜)交換船」という方法が案出された。
テレビ・ドラマでは、人質を同時に解放して相手側に返す人質交換があるが、一方が謀って相手をだまし「バーカメ!」「オノレ ハカッタナ−!」などとやりあって交換も決裂してしまうシ−ンがよくある。戦争に突入した二国間でそのようなことがおきないように、永世中立国・スイスなどの第三国を介して、外地の滞在者が安全に帰れるようにとりはからっている。
日米の戦争が勃発した時に、アメリカには日系人の他、大使館員、外務省役人、商社員、学者、留学生、旅芸人、サ−カス団など様々な人々が滞在していた。 そして1942年6月に、「第一次日米交換船」がスタ−トし、そこには色々な人間ドラマがおこった。
ある者は交換船に乗らずアメリカに残り、あるものは交換船で日本に帰ってきている。そこには人生をかけた選択が行われた。
というのは交換船に乗らないということは、敵性外国人といことで収容所に入れられる可能性もあったし、日本に帰るということは日本で敗戦をむかえるということになる。実はアメリカに住む多くの日本人は口には出さずとも日本が戦争に負けると思っていた。留学生であった鶴見俊輔は、日本は敗戦となるだろうから何としても日本に帰らなければならないと思ったそうである。
アメリカに残留した者の中には、アメリカの収容所に入れられた者もいれば免れたものもいた。
第一次日米交換船で乗り込んだ人々の中には、都留重人・鶴見俊輔・和子兄妹など後に日本のオピニオン・リ−ダ−になる人もいれば、竹久千恵子などモダンガ−ルとよばれた女優、さらには後にジャニ−ズ事務所を設立するジャニー喜多川など異色の人々もいた。
交換船は、6つの階層にわかれ最上階のAには野村吉三郎(駐米大使)・来栖三郎(特派駐米大使)など、都留夫妻はD、鶴見兄妹は最下層のFだったという。
私が、学生時代に遠藤周作の講演を聴いたとき、遠藤氏がフランスに戦後第一回留学生として渡った時に、海が見える部屋ですよといわれて乗り込むと、窓から見えたのは海面だけだったという話を思い出した。
遠藤氏は、リョンの下宿先のフランス人に「日本の家は木と紙でできているのですか、雨の日はどうするのですか」と質問され、語学力の不足で返答にこまり、「雨の日は貼り替えます」と答えたそうである。
ところで日本側から出発した日米交換船には、カナダの外交官ハ−バ−ト・ノ−マンが乗船している。アメリカでマッカ−シ−旋風が吹き荒れた時に、都留重人の証言によりアカと審判されまもなくエジプトで自殺している。都留とノ−マンがこの時「交換船」でそれぞれコ−カンで本国に帰国しているのである。
テレビ・ドラマの人質交換でもしばしば見られるが、「交換船」による人質交換はそれほどスム−ズに運んだわけではなく、色々なしこりを残している。
例えば交換船に乗る直前に敵性外国人として特高に踏み込まれて乗船を拒否された人もいる。アメリカ人のレ−ン夫妻は北海道大学で英語を教えていたが、教え子の学生から千島や樺太の情報を得、アメリカ大使館へその情報を流したという名目で軍事機密法違反でこの交換船に乗ることはできなかった。その後裁判をうけ、ゾルゲ事件以来という重い判決をうけている。
またアメリカ側もその報復として横浜正金銀行のサンフランシスコ支店長松井一平の帰国を拒否したという。

ところで、1960年代に鶴見俊輔は小田実などとともに、ベトナム戦争反対運動の先頭に立ち市民組織「べ平連」を組織した。
小田実もフルブライト奨学金留学生(アメリカ合衆国政府による国費留学生)としてアメリカのハーバード大学に留学している。(小田は1992年よりニューヨーク州立大学で、東洋のルソーと呼ばれた中江兆民の「三酔人経綸問答集」を教材に2年間「日本学」を教えている)
小田、鶴見らはベトナム戦争反対運動の中で「ジャステック」という運動を起こしている。
戦争を忌避して脱走をはかった米兵を第三国に逃亡させて助けるという運動であった。けして少なくない日本人による「信頼」を基盤にした連帯によって、北欧などへ20人近くを送りだしたという。

 こうした運動も鶴見俊輔らの戦争勃発の切迫した中「日米交換船」で日本の土を踏むことになった体験により発想されたものにちがいない。