高橋是清という人物は何度倒れても立ち上がったので、彼をを評して「不倒翁」とか「達磨宰相」とか言われれている。
高橋は転職すること二十数回におよび、前半生はほとんど「ドタバタ人生」そのものと言ってよかった。
しかし彼が倒れる度、声をかける有力者がいた。芸者の箱屋に身を落とした時でさえそうであった。
その意味で私は高橋を「捨ておけない男」と評したい。

1854年 高橋は東京芝に生まれ、父は幕府御用絵師であった。事情があり仙台藩足軽の高橋家に養子に出される。
仙台藩で藩士の子供を横浜にだして外国語を学ばせようと話しがでて、仙台藩の菩提寺の住職が大崎にあり高橋の才能を見抜き推薦した。
高橋は横浜でローマ字で有名なヘボンについて英語を学んでいる。仙台藩ではさらに子供を外国に学ばせようという話がでて5人が選ばれた。
その5人に高橋も入っており1967年にアメリカに渡ったのだが、高橋の知らぬ間に3年間の 「奴隷契約」がなされていたことを知る由もなかったのである。知人を通じて契約の破棄を勝ち取り帰国することができた。
その後、外国官権の判事で後の初代文部大臣の森有礼の食客と遇され、この森が高橋を新設の 大学南校(東京大学の前身)の英語教諭に推薦した。
しかし是清はこの時17歳、放蕩三昧をつくす。ある日、芝居の桟敷席で芸者の長襦袢をまとってはしゃいでいるのを同僚に見つかり、学校にいられなくなり辞職する。
その後、困窮し日本橋の芸者の所に転がりこんだ。是清は芸者置屋の箱屋に甘んじることになった。しかし各界の名士も訪れる芸者屋での仕事は、幅広い人脈を築く上で無駄ではなかった。
このままでは駄目だと思っていたある日、佐賀県の唐津の英語教師の仕事を紹介してくれる人がいた。
高橋の教え子に、東洋経済新聞社を主宰することになる経済学博士の天野為之や近代建築の旗手でや日銀旧館を設計した辰野金吾らもいた。
しかしここも1年足らずで辞職、英語の翻訳などで生計をたて牧畜事業などにも手をそめた。
   そんな中、再び森有礼より声がかかり1873年通訳として文部省に入省した。
しかしアメリカ留学時に知り合った男に共感し運命をともにするつもりだったのか文部省に辞表をだしてしまう。しかしその男はその後、壁にぶつかり狂死してしまう。
その後しばらく東京英語学校の教師をするが、そこを辞めて相場師に転じる。銀相場・米相場や株にも手を染めるが、いずれも失敗するものの、この時に学んだ経済という生き物に対する知識と感覚は後々まで役に立つことになる。
1881年再び政府から声がかかり今度は農商務商工務局に入省する。この時28歳、「実学」を背景とした高橋の実力が買われたのだ。高橋はそこで著作権・専売特許権・商標の制度が不備であることを痛感し、その調査・研究のために、かつて奴隷に売られた地・アメリカに渡る。
 商標特許制度の整備に貢献した高橋は、36歳で農商務省から切り離された特許局の初代局長となった。  そして農商務省の先輩で高橋が敬愛する人物が高橋にペルーで銀を掘ってみてはどうかという話をもちかける。高橋はこの話に乗った。
この時、高橋はけして山師的な気持ちでペルーに向かったのではなかった。高橋は資本が不足している日本経済の弱点をよく知っていた。
まず資本に余裕がなければと思ったからである。初代特許局長の座をなげうって、カラカウワ銀山に全額出資し会社を設立したのである。
 ところが詐欺にあい、銀山も廃鉱であったことが判明し、高橋は全財産を失って帰国する。 そして高橋は自宅を売却し長屋住まいが始まる。
そんな折、日銀の建設事務所で働かないかという声がかかった。しかし1つ問題があった。
その建築事務所の所長は辰野金吾でかつての唐津の英語学校での高橋の教え子だった。
この頃、高橋は人生を立て直そうとしており、その仕事を喜んでひきうけた。
高橋はその後、財務家として頭角を現し日銀総裁になるのだが、日銀を設計建設した辰野金吾との不思議な「めぐり合わせ」に驚かされる。

高橋は日露戦争時には外債募集に奔走し日本の勝利に大いに貢献した。しかし高橋は財務家としては優れていたものの、必ずしも政治家としては優れていたとはいえない。
その後、大蔵大臣となり政友会総裁から首相となるが、政友会総裁として党をまとめることができなかった。
前任者である原敬が一度会った人物の個人情報を実によく知っていたのに対し、高橋はそうした人間的関心がきわめて薄く無欲恬淡とした人物であった。
1936年、軍部の独走を批判し226事件で東京赤坂の自宅で射殺される。