「意図せざるところに天意が働く」という言葉を何かの本で読んだことがある。
私は、ラフカディオ・ハーンの松江滞在を思う時この言葉を思い出す。ハーンの日本行きはある程度本人の意図(希望)するところであったが、松江滞在は全くの偶然であった。

ラフカデイオ・ハーンは1850年6月にギリシアのイオニア諸島のレフカス島に生まれた。父はアイルランド人、母はギリシア人である。 少年時代には不幸があいついだ。 両親の離婚、事故による左眼失明、父の旅先での死、経済上の理由での退学、その後ロンドンに出て造船所で働き、はなばなしい産業革命の蔭で日のあたらない生活を送る人々の中で成長していく。
1869年、無一文でアメリカに渡り、移民列車で多くのアイルランド人が住んでいたオハイオ州の シンシナティにやってくる。シンシナティで開かれた博覧会で日本の出品物に触れ、日本へ強い関心を寄せる。
彼はここで、給仕、廃品回収業、行商、電報配達員、ビルのガラス磨きなどの職を転々とし、 産業革命後の資本主義経済に抑圧された立場から、資本主義の暗黒面への批判や文明化への 疑問をもつようになる。
この頃、黒人混血女性と同棲するが、心傷つき、この関係を清算するためにニューオリーンズへ行く。
ここで文才が認められ新聞記者となりハ−ンの前途に光明が射す。
ニューオリーンズの新聞社の編集長としての成功し、ハーパー社との間で日本行きの企画がもちあがった。19世紀後半の欧米は、旅行と旅行記に対する関心が非常に高まった時代である。
読者のかわりに旅をし、臨場感あふれる言葉で旅と異国の情景を描写する通信記事や紀行文が新聞・雑誌に掲載され、広く読まれたのである。
1890年4月4日ハーンはハーパーズ・マンスリー誌から特派され横浜に上陸する。時に39歳、わずか2ヶ月の滞在予定ではあったが、まもなく社との契約条件に不満をもち、ただちに社とは絶縁する。
しかし日本への関心はますます高まり文部省からの斡旋で日本の山陰にある辺鄙な町・島根県松江にある中学校の英語教師として赴任する。
1890年8月ハーンは東京をはなれ、新任の地、島根県松江へと向かった。 途中、鳥取県下市の妙元寺境内で行なわれていた盆踊りを見て生涯忘れえぬほどの感動をおぼえたという。
松江は前年に全国市制施行に伴い松江市になったばかりで、当時の人口が約3万5千人であった。 松江は、神々の国・出雲に近く、ハーンにとっては絶好の土地であったにちがいない。
西洋ぎらいでキリスト教ぎらいのハーンにとって、古代からの奇妙な風俗をまだ多く残している松江は不思議な安息を与えた。
そしてハーンは地元の人々から「ヘルン先生」と親しみをこめて呼ばれるようになる。
1891年1月1日にハーンは羽織袴の正装で年始まわりをして松江の人々を驚かすが、その年寒気に襲われ病に臥し、看病と身の回りの世話をするためにセツが雇われる。
そしてしだいに彼女と心をかよわすようになり結婚した。そして日本で骨を埋める決意をし日本に帰化して名を小泉八雲とかえた。
妻のセツから聞いた話をもとにつくった「雪おんな」「耳なし芳一のはなし」などの怪奇文学にも力をいれている。ハーンの内に秘められた傷痕、癒されぬ心の叫びが、ハーンの怪奇趣味の根源にあったといわれている。
小泉セツは不幸な結婚に破れた孝行な士族の機織の娘であった。セツと出会わなければハーンの創作はこれほど豊かであることはなかったであろう。
また友人や夫人達の助力を得、出雲その他、日本古来のすがたをとどめている土地を歩き回り、日本の知識を吸収しそれを書き続けた。
松江のほとんどすべての名勝、風土、風俗がハーンによって世界に紹介されている。 英文学の巨匠である外国人の手によって一つの町があますところなく伝えれるというようなことはざらにあることではない。この点、松江は、単なる田舎町ではなく世界的なものを持っていたのかもしれない。
ハーンは松江に永住するつもりでいたが、山陰の冬の寒さに堪えかね、また扶養家族もふえたために、高給を約束された温暖な熊本への転任を決意した。

転任先は熊本の第五高等学校で、当時、日本柔道の生みの親・嘉納治五郎が校長を勤めていた。
しかしながら熊本の気風は荒っぽく熊本での生活を「熊本は日本でもっとも醜い、最も不快な都市です」と抗議し、日本への陶酔から醒め失望すら抱くようになる。
こうした熊本での印象は部分的には自由民権運動からしだいに排外的な国家主義へと移行する時代の趨勢によるものでもあった。
 ハーンが日本についた1890年は教育勅語発布の年であり、前年には明治憲法が発布されている。また西洋近代の文明を取り入れますます近代化への道を歩んでいた。
日本の近代化の動きのなかで「真実なものは古い日本でした。私は新しい日本を好むことができません。」と古い美しい霊的な日本が教育その他の面における西洋化によって失われつつあるのを悲しみつつもそれを直視しようとした。
ハーンの作品は、もともと日本人読者のためではなく、欧米人を対象として書かれたものである。
もともと記者として日本にやってきたために、見たまま聞いたままを書いたものが多いが、「東の国から」「知られざる日本の面影」「夏の日の夢」など英文の数十冊は、日本を紹介する本として、アメリカを中心に読まれてきた。
1896年、ハーンは苦悩を秘めたまま、神戸から東京に転居し、東京帝国大学で教鞭をとった。そして夫人の献身的な助力のもとに怪談や日本論に関する著作を毎年のように刊行していく。
当時の日本は急速にヨーロッパの産業をとりいれ、朝鮮、中国を侵略していく。 かつてイギリスが父の国アイルランドを侵略したように。
ハーンは日露戦争の趨勢を案じつつ、1904年9月26日54歳で狭心症で急死する。
その直前に「この調子では日本はもはやはてしない戦争に突入していって最後には破滅するのではないか」と書いている。

ラフカディオ=ハーンという人の歩みを見る時、彼がまるで最後の「美しき日本」を書き記せという「天意」により松江という町に引き寄せられたような気がするのである。
 「この人」「この時」そして「この場所」でしかで起こりえなかった不思議な「めぐり合わせ」である。