奇跡の村


徳島県坂東は、四国讃岐山脈の山裾に抱かれた穏やかな村である。四国霊場めぐりの一番札所である霊山寺があり、昔より心傷ついた者達を暖く受け入れてきた。
第一次世界大戦の時代の日本軍は中国青島で捕らえた捕虜達を日本国内各地の捕虜収容所に送り込んだ。
1920年この坂東の村にドイツ人俘虜収容所がつくられた。坂東はそれまで作られていた丸亀・松山・徳島の三箇所の捕虜収容所を統合したものであった。
また過密傾向があった福岡の久留米からも捕虜が多くおくられてきたのである。実は久留米の24連隊はドイツ要塞があった青島攻撃の主力部隊があったところでもあり、この久留米収容所にいた捕虜達は過酷な扱いをうけ次に送られる坂東収容所の扱いについては多くの不安をいだいていた。
この収容所の所長は松江豊寿、会津出身で父母は戊辰戦争の時に賊軍として新政府軍と戦い、敗れた後会津人は青森の斗南に移された。その不毛の大地で会津人は塗炭の苦しみを味わった。松江は会津で生をうけるものの父母から何度も其の話を聞かされた。
俘虜収容所のまとめ役という人事にこうした新政府側の意図がどの程度加わっているかはわからない。が、西郷隆盛が西南戦争に敗れた後、西郷の三番目の妻との間に生まれた嗣子・西郷寅太郎が千葉の習志野収容所の所長であったところをみると、何らかの意図が働いているのかもしれない。
(私は、律令国家の時代に東北の蝦夷をまとめた俘囚の長として任命された阿部氏・清原氏などがもともと律令政府に制圧された蝦夷であったことなどを思い出す。俘虜収容所の場合、夷をもって夷を制するではなく賊をもって夷を制するということかと思う。)
ともあれ松江ほど敗者の側の気持ちを理解できるものはそういなかったはずだ。  松江は次のようなことを言っている。
「我々は罪人を収容しているのではない。彼らもわずか5千あまりの兵で祖国のために 戦ったのである。けして無礼にあつかってはならない。」
坂東俘虜収容所には、兵舎・図書館・印刷所・製パン所、食肉加工場などが設置されまた収容所内部では新聞までが発行されていた。また統合された収容所であったために楽団がいくつかあった。ドイツ兵の外出もかなり自由に認められ、住民との交流の中、様々な技術や文化が伝えれれていった。また霊山寺境内や参道では物産展示会も行われた。
そして多くのドイツ人俘虜が日本敗戦後も日本にとどまり、化学工業・菓子つくり・ソ−セ−ジつくり等の分野で大きな足跡をのこしている。 彼らの多くにとって坂東での体験が宝となっていたからである。
エンゲルをリ−ダ−とする楽団で日本で始めてのべ−ト−ベンによる交響楽第九番が演奏されるのである。 エンゲル楽団の演奏会には、徳島の有志の人々も招待された。その中に徳島市内の立木写真館の人々もいた。そしてこの立木写真館で地元の人々と合同の練習が行なわれた。そしてエンゲルは日本を去っても音楽は残り続け、この人々によって「第九」の合唱が大晦日に響いていくようになっていく。(ちなみにこの写真館はNHKドラマ「なっちゃんの写真館」の舞台となっている。また女優の写真で有名な立木善浩氏は三代目社主である。)
第九は一般に「喜びの歌」と知られ歌詞はドイツの詩人シラ−の作である。 べ−ト−ベン自身のつくった歌詞も一部付け加わっている。

「さあ友よ!本当に喜びあふれる歌を歌おうではないか。
友よ。歓喜の優しき翼のもとすべての人々は同胞となる。
今こそ 重き苦悩の雪を払え 鉄の鎖を断ち切れ
断固として夜明けの光を 新しき希望の歌声を
もっと快い、もっと喜びに満ちたものを 歌い出そうではないか
苦悩を突き抜けて 歓喜へ」

聴力を失ったべ−ト−ベンのこの曲の歌詞を読んで、この歌は、超克の歌ともいえるのではないかと思うようになった。べ−ト−ベン自身の苦難の「超克」であり、人類の絶望の「超克」である。
そして坂東という日本の小さな村で国家(対立)が「超克」され、人々は「同胞」となった。
人々を暖かくむかえた「坂東」、松江豊寿を生んだ賊軍の地「会津」、そして「べ−ト−ベン」のドイツの奇跡的な出会いが生んだ「超克」である。そして音楽と出来事との不思議なめぐり合わせでもある。