辻仁成の芥川賞受賞作「海峡の光」を思い出した。函館少年刑務所刑務官とそこに収容された受刑者とのやりとりが描かれている。主人公である刑務官の前に少年の日に彼をいじめ続けた「あの男」が受刑者となって現われた。
 刑務官はいつしか自分のことが「あの男」に判るのではないかと怯えながらと帽子を目深にかぶりつつ「あの男」に命令を下していく。実は主人公は廃航せまる青函連絡船の客室係を早く辞めて刑務官の職を得ておりそのことがかつての同僚に対して負い目となっている。そして函館という砂洲の街に自ら閉じ込められ皆に監視されていると意識している。
そして刑務官は受刑者である「あの男」がなんと自由で広い世界でいきているかと思う。主人公は国家権力を身にまとい「あの男」に威圧的に対峙するものの「あの男」の存在がますます大きくのしかかっていく。
拘束するものとされるもの、監視するものとされる者、支配する者とされる者、その逆説的世界が緊迫感をもって描かれている。

1909年10月26日、ハルピン駅において韓国統監で元首相の伊藤博文が暗殺された。韓国独立運動の指導者、安重根によるものであった。 韓国においては、安重根義士は豊臣秀吉の朝鮮出兵に際して日本軍を打ち破った李舜臣将軍と並ぶ二大英傑とされている。 事件後、逮捕されて旅順監獄に収監されたがそこで安重根を旅順の刑務所で監察するというめぐり合わせにいた日本人達がいる。この人々は安重根は極めて正義感に富んだ高潔な人物であることを知り次第に安重根という人物に引き込まれていく。
逮捕後の安重根その姿は日本人の検察官や判事、看守にまで深い感銘を与えたという。そして多くの人々が獄中の安重根に揮毫を依頼しその数は約200点に及んだ。
 看守の千葉十七は安重根の真摯な姿と祖国愛に感動し精一杯の便宜を図った。そして、死刑の判決を受けた安重根は処刑の直前、「為國獻身軍人本分」と揮毫し、千葉に与えた。韓国総督府での勤務を終え、故郷の宮城県に帰った千葉十七は、仏壇に安重根の遺影と遺墨を供えて密かに供養し、アジアの平和の実現を祈り続けた。1979年安重根生誕100年に際し、密かに守られてきた遺墨が韓国に返還された。
宮城県の若柳町大琳寺には千葉十七夫妻の墓があり、1981年、遺墨の返還を記念して、安重根と千葉十七の友情を称える顕彰碑が建立さた。
 また安重根に感銘を受けた日本人として、当時、旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉がいる。栗原は安重根の国を思う純真さに魅せられた。栗原は安に煙草などの差し入れをしたり高等法院長や裁判長に会って助命嘆願をするなどしていた。
処刑の前日に栗原が何かできることはないかと尋ねると安は「国の礼服である白絹を死装束としたい」と言った。
そこで栗原の祖母や姉達が夜通しで編み上げた白絹の礼服が安に差し出された。安は1910年3月26日にその礼服を身につけて処刑となったのである。
栗原は安を救えなかったことに仕事の限界を感じ職を辞して故郷の広島に帰った。広島では医学関係の仕事につき再び役人の世界に関わることなく1941年に亡くなっている。
栗原家の墓所は広島の平和祈念公園にほど近いところにある。墓石は原爆のためにかなり痛んでいるという。
   ソウルには安重根の偉業を伝える「安重根記念館」がある。安が処刑の時に身につけた白装束は栗原の家族ではなく安の母親が編んだと説明されている。

   また日本民芸運動の創始者である柳宗悦は、支配する側の国民でありながら支配される側の痛みを感じ取ろうとした希有な日本人である。柳は朝鮮の李朝陶器の美を通してより普遍的立場から1910年の日韓併合以降の日本の植民地政策をして批判した。
  1919年3月1日、日本の植民地支配に反対して「独立万歳」の声が上がり、半島全域で反日独立のデモが勃発した。  朝鮮芸術への崇敬か慕情の念か宗悦はこの事件を黙って見過ごすことができず日本のほとんどの識者が沈黙した中で、新聞に「朝鮮人を想う」という一文を投稿した。
 「国と国とを結び人と人とを近づけるのは科学ではなく芸術である。政治ではなく宗教である。智ではなく情である。ただひとり宗教的もしくは芸術的理解のみが人の心を内より味わい、そこに無限の愛を起こすのである」と語っている。
   民芸品とは壺・棚・家具などのごく日常的に使用される道具だがその中に朝鮮民族の魂を見い出した柳の魂の非凡さに感銘する。