2006年5月、私は広島湾に浮かぶ小島・似島に向かうフェリ−の中で興味深い名前を見つけた。
福岡を拠点とするJリ−グチ−ム・アビスパ福岡の元監督・森孝慈氏の名前である。
広島の宇品港からわずか8キロのところに浮かぶ似島は最近、平和学習の拠点として注目を集めている。
第一次世界大戦中、日本軍に青島を攻撃されて捕虜となったドイツ兵723名はこの似島の収容所に送られた。ドイツ人捕虜達はここでホットドッグやバ−ムク−ヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在原爆ド−ムとして知られている広島物産陳列館で紹介され一般に知られることになった。
特に捕虜の中のユ−ハイムはバ−ムク−ヘンの店を神戸三宮に開き、今日までその店は発展し続けている。
またホットドックはベ−ブル−スがきた日米野球の時、甲子園球場ではじめて販売され飛ぶように売れ日本人に新しい食文化を提供した。
さらにドイツ人捕虜は高度なサッカ−技術を日本に伝えた。広島高師(現・広島大学)の学生達がサ−カ−を習いに宇品港から船で20分のこの島を訪れた。
そして1919年広島高師とドイツ人捕虜との間で試合も行われた。日本人はつま先でボールを蹴ることしか出来なかったのに対し、ドイツ人はヒールパスなども使い日本人を翻弄した。ともあれこれが日本サッカー初の国際試合となったのである。
ドイツ似島イレブンの一人であるフーゴ・クライバーは本国に帰国した後プロサッカ−チ−ムを立ち上げている。彼が作ったクラブは、バンバイルSVといいい現在は会員700人を数えている。後の浦和レッズ監督のギド・ブッフバルトは少年時代にこのチームで8年間プレイしていたという。

似島には安芸小富士とよばれる海抜300メ−トルほどの山があるがこの山に登ったドイツ人捕虜達は、波静かな瀬戸内の風景に望郷の念をかられたであろう。
山に登る途中、「いのちの塔」と出会った。
似島は、瀬戸内のうららかさとは対照的に日本人にとっても重い歴史を刻んでいる。日清戦争の時には日本人帰還兵の検疫所となり、太平洋戦争末期には原爆被災者の多くがこの島に送られた。
日清戦争から帰還しここの検疫所でコレラと診断された人達、原爆の被災者達など多くの人々がこの島で亡くなった。

1945年、広島県庁の職員であった森芳磨氏はは単身広島市へ転勤となったが、原爆投下の直前に東京へ転勤となりこのため被爆を免れた。「自分は生かされた」という運命と信じた森氏は終戦後街をうろつく原爆孤児を引き取り広島湾の似島に似島学園を設立した。
この学園の場所こそドイツ人捕虜の収容所があったあたりで、この学園にもドイツ兵の高度なサ−カ−技術が伝えられたのである。
そして似島中学校のサッカークラブはしばらくは県下一の実力を誇ったのである。
ところで森芳磨の子供達二人もこれに伴い広島市国泰寺町で育った。兄弟で子供の頃からサッカーに熱中した。
そして弟の森 孝慈は、早稲田大学にすすみミドルシュートの名手として知られた。
日本代表チ−ムのミッドフィールダーとしてメキシコ五輪に出場し、引退後は85年まで日本代表チ−ムの監督を勤めた。
その後Jリ−グ設立に貢献し、98年にはアビスパ福岡の監督に就任した。さらにギド・ブッフバルトも監督を務めたこともある浦和レッズの監督としてチ−ムを全国制覇に導いたのである。
兄の森健兒は、1984年のロサンゼルスオリンピックで強化部長を務めた。 その後サッカ−界に大きく貢献し1991年にはJリ−グの専務理事に就任した。
森健兒氏は古河鉱業で社業の激務と連携の不便さからサッカーを離れてサラリーマン生活を送っていた旧知の川淵三郎を後任の総務主事に抜擢した。
川淵を補佐する管理本部の統括者となり、Jリーグホームタウン委員長、資格委員会(選手契約担当)委員長などの役職を兼ね、Jリーグ胎動期の実務の多くを取り仕切った。
森・川淵二人のヴァイタリティこそ今日のJリーグ実現の原動力となったといえる。

また似島に送られたドイツ人捕虜達と森兄弟の父親・森芳磨との「めぐり合わせ」こそは、Jリ−グ誕生の快哉の彼方に響く遠雷の訪れだったようにも思える。