福岡県久留米といえばゴムの町である。ゴムの町をつくったのはブリジストンの初代社長の石橋正二郎であるといっても過言ではない。石橋正二郎は地下足袋からゴム靴そしてタイヤ生産へと事業を発展させていった。
この久留米のゴム産業の発達に第一次世界対戦中に送り込まれたドイツ人捕虜が関わっていることはあまりしられていない事実である。
ところで1543年ポルトガル船が種子島に漂着し鉄砲が伝来するが、たまたま種子島はタタラ製鉄の島であり、領主であった種子島時堯はさっそく試作品を完成させるのである。
化学先進国ドイツからゴムの街・久留米の町とやってきた捕虜達にもそんな不思議な「めぐり合わせ」感じさせるものがある。

私は、2006年新聞で、第一次世界大戦中にドイツ人捕虜によって日本で最初にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」が演奏されたことを知った。
そして福岡市内にもドイツ人捕虜収容所があったことを思い出し、おそらくは福岡以外の地にもと思いインターネットで検索してみたところ、広島の似島・松山・習志野・徳島の板東にもあることを知った。
特に徳島県・鳴門市の坂東にはドイツ館がもうけられており、多くのドイツ人捕虜の記録が残っていることを知った。2007年にこのドイツ館を訪問し、映画「バルトの楽園」の映画セットや捕虜がつくったというドイツ橋を見学することができた。
第一次世界大戦で日本軍は山東半島のドイツ勢力圏・青島を攻撃し2ヶ月後には占領した。日本軍はその時、ドイツ人捕虜約4600人を日本国内に送ったのである。その中の約1千人が徳島の坂東収容所に送られた。
この収容所の所長が松江豊寿大佐で、「国家は将兵以外の俘虜に、その階級や技能に応じた労働につかせることができるが、その労働は激しいものであってはならない。」というハーグ協定の精神を徹底させた。
そして1918年にこの収容所で日本で最初にベートーベンの交響曲第9番「歓喜の歌」を演奏されたのである。

松江所長とドイツ人捕虜の中心的存在だったハインリッヒ少将の友情や地元住民と捕虜達の心の交流は映画「バルトの楽園」が描かれている。
さらに1917年に開設された広島の似島の収容所には545人が送られた。ここでは広島師範学校の生徒とドイツ人捕虜とのサッカーの試合がおこなわれている。
さらに捕虜の一人カールユーハイムは食の伝道師としてバームクーヘンを伝え、解放後も日本に残った。
バームクーヘンのユーハイムは、神戸に本店があるヘルマン・ウォルシュケはハムやソーセージづくりを伝え、1934年のベーブルース来日時には甲子園球場で日本で初めてホットドックも販売された。ウォルシュケの墓は東京狛江の泉龍寺にある。
バ−ムク−ヘンやホットドックは、現在の原爆ド−ムとなっている広島県物産陳列館で人々に知られた。

ところで第一次世界大戦における青島攻撃の主力は実は福岡の久留米第18師団であった。
久留米の収容所にも、約1300人の捕虜が送られており、久留米でも捕虜達による第九の演奏がおこなわれたのである。坂東収容所の第九の演奏から遅れること1ヶ月であった。
ところで石橋正二郎は1889年久留米の仕立物屋「志まや」に生まれた。父が病で兄は陸軍に入営したため経営を任されることになった。
石橋は徒弟制度をやめ、給料を払い労働時間を短縮する、仕事を一番有利な足袋にしぼった。九州には車が一台もなかった時代に車を宣伝に使う、それまで足袋は種類や文によって値段が違ったのを「均一料金」に統一する。
「志まやたび」の名では古臭いので好きな言葉「昇天旭日」から「アサヒ」を思いつく。「20銭均一アサヒ足袋」を思いつくや注文が殺到した。
ドイツ人捕虜の技術者は、日本足袋(現日本ゴム)やつちや足袋(現月星化成)といった会社の発展にも貢献した。
彼らが先端的なゴムの配合、接着技術、文房具の消しゴムの作り方などを教えたのである。
石橋正二郎は、将来発展するのは自動車タイヤであることを見越し、九州大学のゴム研究の先覚者である教授の元を訪れ、タイヤの国産化をめざす決意をする。
そして1931年にブリジストンタイヤを創立している。

久留米の捕虜収容所にいて亡くなったドイツ兵の墓は久留米競輪場に隣接した一角にもうけられている。
た久留米の捕虜となったドイツ兵は、久留米から博多また湾に面した福岡市の柳橋や須崎の収容所などにも送られ、自ら労働を希望したために今津の元寇防塁の修復にあたっている。
この移送の際にドイツ兵たちはローレライを歌いながら現場にむかったという。そのため今津の元寇防塁は、市内各地の元寇防塁の中で最も良く保存されているのである。
「支配と服従」「暴力と憎悪」を想起させるような捕虜収容所で「歓喜の歌」が歌われ、なおも異国人同士が隣人となり文化や技術をかよわせたことを示すこうした出来事は、テロや大量殺戮といった不安が蔓延する殺伐たる世界の中で、人間存在への希望をともす燈明のように思える。