作詞家なかにし礼の「赤い月」などのテレビ放送を見るにつけ現代日本の最前線で活躍する人々の中に満州移民の人々またはその二世が数多く存在することを意識するようになった。
そして彼らは今日の日本で、異なる分野で何の接点もなく生きながらも「満州体験」を共有するという意味では一つの「めぐり合わせ」の中に生きてきたともいえる。
 そうした人物の中で一番よく知られたのが「李香蘭」として生きた女優の山口淑子であるが、その他にも木暮実千代という女優も満州にいた。
 木暮美千代の夫・和田日出吉はもともと新聞記者であるが、1938年に満州新聞社社長となり、後に甘粕正彦の経営する満州映画会社を手伝い、新京で甘粕が自決するのを見届けて帰国している。
甘粕は映画「ラストエンペラー」に溥儀の黒幕として登場している。1923年の関東大震災の折に大杉栄・伊藤野枝を殺害し軍法会議で10年の刑を言い渡されるが、態度優秀につき短期で出獄し満映理事として満州にやってきたのである。
この甘粕を満州に呼んだのが当時、気鋭の満州官僚であった岸信介であったといわれている。
また俳優の森繁久弥も甘粕正彦とも交流があった。森繁はNHKアナウンサー時代には満州電信電話会社の放送局に勤務し満洲映画協会の映画のナレーションなどを手がけている。

ところで満州二世である人々の中には国際派として活躍している人が多いのに気が付く。
その一人がNHKのニュース解説で有名な磯村尚徳である。尚徳氏の父親が磯村武亨大佐でかつての参謀本部第五部ロシア課の武官であった。
たまたま「陸大優等生一覧」という面妖なるウッブサイトを見つけたが、第39期首席に磯村武亨氏の名前があるのを見つけた。
独ソ戦がはじまった折、日本軍は関東軍特別演習の名の下に兵を満州とソビエトの国境に集めたが、ソ連軍が兵を西に動かす気配がなく、日本軍の「北進」は無理と報告した人物である。周知のように日本軍はその後、上海・南京へと南進をしていく。ちなみに「北進なし」の極秘情報をソビエトに打電したのがゾルゲである。
また尚徳氏の祖父は陸軍大将・磯村年で1937年2月17日、2・26事件の後、ただちに召集され、東京陸軍軍法会議では真崎甚三郎裁判における判士長に就任している。なおNHKの現・松平定知アナウンサーは磯村尚徳氏の甥にあたる。
世界的な音楽指揮者になった小澤征爾の父・小澤開策は、満州建国運動に関わる人物で、満州で歯医者を営みながら満州青年同盟のイデオローグともなった人物である。
開策の三男である小澤征爾の名前「征爾」は、当時開策が思想的に共鳴していた関東軍・高級参謀の板垣征四郎の「征」と作戦参謀の石原莞爾の「爾」を合わせてつくられた名前である。また開策の孫にあたるのがミュージシャンの小澤健二すなわちオザケンである。

私が幼少の頃住んだ福岡市の自宅のすぐそばにに引揚者の部落があったことを思い出した。この部落は崖下の日当たりの異常に悪い場所に存在し30戸ばかりの家屋が密集していた。
人々が「引揚者」という言葉を使うのを意味がわからぬままに過ごしてきたが、高校時代に「流れる星は生きている」という本に出会い、はじめて「引揚者」の意味を知り満州移民の人々の運命について知ることができた。
この本の著者は藤原ていで、戦後すぐにベストセラーとなった。藤原ていの夫は、戦争中満州にあった気象台に勤める藤原寛人氏で、後に作家となった新田次郎氏である。
また次男は「若き数学者のアメリカ」で知られる数学者・藤原正彦氏で最近は「国家の品格」の著書でよく知られている。
 日本の敗戦が決定的になり藤原ていと子供三人は、男は軍の動員命令があり、女ばかりとなった観象台(気象台)の日本人団とともに日本への決死の逃避行を行った。中国の新京(長春)を逃れ、平壌、釜山、そして博多へいう行程が描かれている。
母親は、生きるためにもてるエネルギーのすべてを結集した。
凍死寸前だった子供達を農家の藁小屋の中で下着を絞り子供の肌をこすって生き延び奇跡的に日本への生還を果たす。
そのがむしゃらさと工夫や機転に感動する。
多くは、その逃避の過程でソ連兵や現地の中国人に襲撃され,また川の流れに押し流され命を落とすことになった。
子供との道ずれは困難であったために自分の子供を子供のいない中国人に預けたものが多い。
子供は労働力でもあったために本人にも知らされずに中国人として育ち多くの中国残留孤児が生まれたのである。
 さてハワイ移民は山口県が非常に多くブラジル移民は沖縄が多い。そして満州移民では長野県の割合が突出ている。
長野県は、満州開拓民総数27万人の12.5パーセントの満州開拓民を送出しており、こうした多くの移民の背景には長野県の特殊な事情があることを知った。
長野県は戦前、「野麦峠」で有名なように養蚕でしられているが、繭糸価格の暴落により、多大な被害をうけた地域でもあった。1979年(昭54)の映画「ああ野麦峠」は信州へ糸ひき稼ぎに行った飛騨の若い娘達が吹雪の中を命がけで通った姿を描いている。
長野県には更科農学校に移民専修科が設置され、県立御牧ケ原修練場がもうけられた。そしてゆきづまった農村の諸矛盾を外にむけるべく「満蒙」に人々を向かわせしめる施策が行われていったのである。

明治以来の国策の中で異国を夢見て移民した人々の夢とのひたむきさやたくましさに心うたれると同時に、彼らがたどらなければならなかった行程のすさまじさに思いを馳せた。
そしてこうした満州移民の最大の引き揚げ港である博多港には赤い「引き揚げの碑」がたっている。
真っ赤な色をした「引き揚げの碑」は、引揚者達がようやく繋いだ命を象徴しているようにも思えてくる。