動物の社会にも人間のように社会があるはずだ。人間の社会の成り立ちを動物の社会から 考えよう、京都大学理学部の講師・今西錦司はそう考えた。生態学の研究と登山や探検に明け暮れるなか、終戦後まもない1948年、46歳になってもまだ京大理学部講師だった今西は前人未到の研究領域に踏み込もうと決意していた。
今西は1902年、京都・西陣の織元「錦屋」の長男としで生まれた。小さいころは昆虫採集に熱中した。登山は中学時代にはじめ、この頃には日本アルプスの未踏峰を次々に踏破し登山家としで有名になっていた。今西の口癖「自然そのものから学ベ」は、彼の登山体験からでた言葉に違いない。
31歳で京大理学部講師になるものの15年間も無給講師のままで無給講師のころ「講義はいやだから給料はいらん」といい、確実な収入は貸家の家賃だけだったそうだ。
彼のもうひとつの口癖、「好きなことだけをやる」精神はここにも表れている。

今西はまず野生馬の観察からはじめようとフィールドを野生馬の生息で知られる宮崎県・都井岬と決めた。
ふかし芋がはいった弁当箱をぶら下げ岬を尾根伝いに馬を探し歩いた。
その彼の前に、突然ニホンザルの群れが現われたのである。40〜50頭はいる、その中にボスザルのような大きなサルがいた。今西の頭に予感めいたものが閃いた。「馬ではなくサルだ」。
 今西は大学にはいったばかりの学生二人を連れて、再び都井岬を訪れた。学生は百頭近いサルの集団と出会い、いくつかの鳴き声の違いで意思を伝えあっていることを直感した。
 今西は、動物の世界にも人間と同じように「社会」があるという根本的な認識をもっていた。それがこの場所でウマ探しやサル探しを始めた理由である。今西はウマよりもサルに「社会」性が強いことを感じた。動物はけして無名の集団ではなくそれぞれが個性があり、複雑な社会関係があることを今西は観察によって裏づけようとしていた。
 当時、人間以外の動物の世界に「社会」があるなどとは誰も考えていなかった。今西はいまや未知の領域に踏み込もうとしていた。
そしてウマの調査で初めて用いた「個体識別」という手法でサル集団の観察をはじめた。群れの一頭一頭の特徴を見分けて名前を付け、長期にわたってその行動を記録していくというやり方で、今西が考えついたことだった。
実は今西は1944年、内モンゴルの張家口に設立された西北研究所の所長に迎えられたことがあった。そこで彼はひたすら遊牧民とウマの群れを観察していたことがあるのだ。そして遊牧民が何百頭ものウマを正確に見分けていることに気がついたのである。実は「個体識別」のヒントはこのモンゴルで得たものである。

今西の「めぐり合わせ」のひとつが、この都井岬から海を隔て少し離れたところに幸島という野生ニホンザルの格好の観察地があったことである。また、大分県別府市の高崎山もそう遠くはなかった。
今西にはやがでヒマラヤ踏査の先発隊長としての仕事もあり、その学生達らがサルの調査を引き継ぐことになりサルにそれぞれ名前をつけ、ノートを手に朝から双眼鏡をのぞく日が続いた。するといままでに見えてこなかったものが次第に明らかになっていった。
サル社会における縄張り、上下関係、相互のコミュニケーション、秩序の維持と文化の発見などは世界に先駆けたものであった。
周りに、次第に若き俊英達が多く集まっできた。中尾佐助・河合雅雄・梅棹忠夫・川喜田二郎などである。
今西の自宅では連日、酒、議論が続き、時には取っ組み合いにまで発展した。
登山で鍛えた今西は乱闘にも強く決め技は柔道技であったから、ヒヨワな学徒にはとても近付ける場所ではなかったという。
戦後、サル社会の研究から今西は次第に人類学の方に学問的関心を移していった。 そして1967年に愛知県犬山市に京大霊長類研究所を発足させる。1979年には文化勲章を受章する。1992年、老衰により90歳で亡くなった。

実は今西が最初にウマを探しに宮崎県都井岬に行った際にもう一つの候補地があった。北海道日高である。今西が迷っていたある日たまたま手にとった雑誌に、日向灘を背に岬で草をはむ馬の群れが紹介されていた。彼はその時フィールドを都井岬に決めたという。
北海道日高にはニホンザルはおらず、もしあのとき今西が北海道に行っていたら日本の霊長類学の発展はなかったかもしれない。今西と霊長類学との「めぐり合わせ」であった。