おけいの墓


墓は忘れ去られた者達が物言う唯一の場である、と思う。新潟県佐渡相川は墓の町である。江戸時代佐度島に金がほられ島送りの人々が故郷に帰ることなく葬られた。ある女流作家がこの町を訪れ墓石の一つ一つが語る言葉を聴きに行くということを書いていたのを思い出す。
異国のひっそりとした草むらにぽつねんと立つ墓に日本人の名前が書いてあったらどんな感情が湧き上がってくるだろうか。
高校時代に見た山崎朋子原作の映画「サンダカン八番娼館」を思い出す。ある女性史研究家が明治時代末期から昭和初期まで南海の島々に売られていった「からゆきさん」の実態を調べていた。そして天草で出会った老婆サキと出会い彼女の重い過去を知る。
貧しかった少女時代に真実を知らぬままボルネオの最大の港町サンダカンに売られたサキは一年後には客を取ることを言い渡される。借金の重さと体を売ることの苦しみの中、ゴム園で働く青年との出会いだけがサキの唯一の心の糧となった。一度は故郷に戻るが人々は彼女を冷たくあしらい再びボルネオに戻る。ラストシ−ンで女性史研究家が彼女達の墓を見に行ってわかったことがある。山中の草むらにひっそりとある彼女らの墓の幾つかが日本に背をむけているということであった。

現在、サンフランシスコ郊外、コルマ市の日系人墓地の一角に三つの墓がある。1860年、咸臨丸は日米修好通商条約批准の為、日本人を乗せてアメリカに渡る「ポーハタン」号の随伴艦として、品川を出港した。日本の船としては最初の太平洋横断である。そもそも咸臨丸の役割は「対等の立場で交渉に臨むこと」でありアメリカ船と同様に日本人も大洋を渡る技術を持ち世界と対等に渡り合えることを示し、不利な条約の交渉にならないように監督することであった。
しかし厳しい航海で衰弱したの水夫がサンフランシスコ到着後まもなく病死した。出航後病死した水夫とあわせて三人は当地で厚く葬られたのである。この三人の墓は1898年に東京生まれの仕立て屋の息子によって発見され改装されコルマ市の墓地に安置されたのである。
 異国の草莽に眠るいまだ発見されぬ墓のことを思う。 高橋是清はアメリカに渡る際にコロラド号の下艘船室で早竹吉一座と一緒にゴロ寝したということがわかっている。国家の所望を担い外国の地に渡った人々の他、予想以上に多くの旅芸人が外国に渡っているのである。彼らの多くはその日限りの公演に明け暮れほとんど自分達の記録を残していない。というよりも自己表現さえも満足にできるものとて多くはなかったのが実情である。また少なからぬ芸人達が経済的な困窮や不養生のために異国の土にその身を埋めたのである。
例外的に記録を残した福岡出身の川上音二郎 一座は売り上げを悪徳弁護士に持ち逃げされ困窮のどん底の中、二人の団員がサンフランシスコの地で亡くなっている。

1915年在米邦字紙記者・竹田雪城によってカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルの草地に人知れず眠る少女の墓が発見された。竹田はこの墓を調査するうちに日本で最初の移民団といってもよい若松コロニ−の存在と出会うのである。
 幕末に薩摩長州に武器を売り込んだイギリス人グラヴァ−が有名であるが、対する幕府側についた会津藩にもお抱えの武器商人ジョン・ヘンリー・シュネルという人物がいた。
 彼は、戊辰戦争に敗れた藩を見限り新天地アメリカに日本人の村を建設しようとした。日本の茶と絹を金鉱発掘の好景気に沸くカリフォルニアで作ればきっと成功すると考えた。敗戦によって前途を失った武士とその家族たちを説得し、1869年にたくさんの茶の実と蚕を携えて船に乗ったのである。
しかしこの渡航は新政府の正式な許可は取っておらず、そのことが若松コロニ−と呼ばれた日本人の村の存在を埋もれさせたのだと思う。
旧会津藩のサムライとその家族たちは勤勉に働き茶の木は育ち、シュネルは1870年のカリフォルニア州フェア(見本市)にこれを出展する計画まで練っていたという。
 約1年間と少しだけこのコロニーは持続したが何らかの原因で崩れた。日照り、資金不足、あるいは病の流行によるものとも言われている。1871年4月、行き詰まったシュネルは日本で金策をして戻って来ると言い残しこの地を去り、二度と戻ってくることはなかった。あとに残ったものは言葉もわからず生きる糧もないまま途方にくれた日本人入植者たちだけだった。
記者の竹田は墓に眠る少女が住み込みで働いていた白人家庭を探し当てる。ヴィーアキャンプというこの家の子孫は少女を覚えており、そればかりではなく歴史に埋もれていた若松コロニーの存在を明らかにしたのである。
 少女はシュネル家の子守として彼らについて渡米したらしい。コロニーの経営失敗後にヴィーアキャンプ家に引き取られ使用人として働く。しかし1年足らずで彼女は体を崩しこの地亡くなってしまう。
 少女の墓にはには日本語で「おけいの墓」と書かれていた。そして英語で、「1871年没、19歳、日本人の少女」と。その他の入植者達の行方はほとんど知られていない。