宇都宮氏の呪い


人が死すべき状況で生き残った時その生をどう受け止めて生きるのだろうか。
「死すべき状況」如何によっては生存を素直に喜ぶことはできず、逆に負い目になることもあると思う。人が自分の身代わりになって死ぬことだってありえる。
1960年代、熊本県水俣の上村さんは妊娠中に有機水銀に汚染された魚を食べた。しかしその毒をすべて吸い取ったとったのが胎児だった。上村さんに体の異変は起きなかったものの、胎児は完全に脳と四肢が麻痺して生まれてきた。胎児は育ち16歳まで生きた。アメリカの写真家ユ−ジン・スミスが撮った母娘2人の入浴シ−ンは世界に衝撃を与えた。
娘を抱きかかえ慈しむように体を洗う母親の姿にはある種の崇高さが漂っていた。

生き残った人として思い浮かべる人がいる。白虎隊の唯一の生き残りである飯沼貞吉である。白虎隊は若松城落城と誤認し、飯盛山で互いに刺し違えて死ぬのだが、飯沼は傷が浅く近くの村人に救助され一命をとりとめた。飯沼により白虎隊の悲劇が明らかになり後世に語られる事となった。
明治維新後は改名し逓信省で電気技師として各地で勤務した。1905年には札幌に郵便局工務課長として赴任し1907年の札幌大火の復旧工事などに尽力した。仙台逓信局工務部長の地位で退職し仙台で病没した。
生前の彼には心無い同郷人から「一人だけ生き残った恥さらし」という無言の罵声を浴びせられ続けたという苦衷があった。事実そのために彼は会津の地に住むことすらできずその生涯の最期にあたっても会津に帰ることはなかった。
新政府の逓信省で電気技師として働いた時代の彼の胸中についてはよくわからないが、きっと死んだ友の分までも必死で生きようと思ったのではないかと思う。

1985年8月12日に、日航機が上野村の御巣鷹の尾根に墜落し、520人が亡くなった。 四人の生存者の中、ヘリコプタ−で吊り上げられた当時12歳だった川上慶子さんの姿は今も脳裏に焼きついている。
彼女はその後、命を救うという仕事を選び看護婦となった。その後阪神大震災のときには現地に飛んで救援活動も行っている。2002年には結婚して今は子供もいるという。
ところであの日航機墜落事故現場の御巣鷹山のある村の村長・黒澤氏は海軍ゼロ戦パイロットの生き残りで終戦時は海軍少佐であった。
「行路病人及び行路死亡人取扱法」という法律により、身元が確認できなかった328人の葬儀、永代供養を村で行わなければならず共同墓地の位置、そこまでの道路工事、保安林解除、その費用の調達などで大変苦労された。
ゼロ戦で生き残った人が、航空機事故の後始末に獅子奮迅の努力をされたのも何かの「めぐりあわせ」を感じさせる。
黒澤氏は村長をやめるにあたって次のような言葉を残している。「陰徳を積んで陽報を求めず」。古代中国の淮南子に出てくる言葉は、「陰徳あれば必ず陽報あり」ということわざである。御巣鷹の尾根の遭難の現場に黒澤さんの書になる「昇魂の碑、魂が昇る」という昇魂の碑が建て立っている。

ゼロ戦の生き残りといえば板津忠正さんを思い出した。
  板津さんは1945年5月28日知覧より出撃した。沖縄へ向かう途中エンジンの不調に気がつき、それでも編隊飛行を続けようとしたものの高度1500メートルのところでエンジンが完全にストップし、徳之島へ不時着した。 板津さんはその後2度出撃命令を受けるが天候不良のため出撃中止となり、出撃する機会を失ったまま終戦を迎えることになった。
 終戦後五年間、自分だけが生き残り誓い合った仲間と一緒に行けなかったことへの申し訳なさから何も手がつかない状態が続いた。 名古屋で公務員として働くうちに、自分と同期の戦友がどのように亡くなったのか、生きている人もいるのではと、記録や資料を調べ始めた。仕事のかたわら遺族の方々に手紙を書き続け、遺影や遺品を集めて全国を訪ね歩くようになった。
 早期退職してその退職金を使い板津さんが集めた遺品や遺影を元にして設立されたのが現在の知覧特攻平和記念館である。板津さんは知覧特攻平和記念館の初代館長を勤められた。

  生き残った人々の生を見ると、彼らのその後の生は死者の眼差しを意識するところからはじまっているように思える。そしてある者にとって、生とは死者とともに生きていくことに他ならなかった。