政界や財界に登場してくる人物に時々、「この時、この人」というような「タイミング」を感じることがある。ここに紹介する人々は何れも「遅れて登場」したのであるが、まさに「遅れた」ことが幸いして、彼らの政治使命をより「効果的」に実現できたのではないかと思うのである。
もちろん「功罪相相半ば」「毀誉褒貶」という言葉もあるとおり、彼らが残した課題も多くはあったであろう。
しかし果たして彼らに代わりうる人材はという点を考えた時に、彼らはやはり「歴史的」にみて適材適所という「めぐりあわせ」にあったのではなかったか、と思うのである。

歴史におけるめぐり合わせで、思いおこすのが、小説「花の生涯」に描かれた井伊直弼である。井伊の生涯は華やかさとはほど遠く大半は忍従の生涯であった。彦根藩藩主の14男、庶子として生まれたために、藩主になる可能性もなく、かといって他藩に養子の受け入れ先もなく、ある時点で自分の生涯に諦観を抱いたのか、彦根城にある自分の書斎を「埋木舎」と名づけている。
 ところが、直弼の運命は急旋回していく。兄が次々と病死したため彦根藩第13代藩主になったのである。そして忍従の時代に学問に励み精神を磨いた井伊には、熱い舞台が待っていた。黒船来航以来混乱から冷めやらぬ幕府の中枢を担う大老の役がまわってくるのである。
井伊は、勅許を得ずに開港するという現実路線を執り、反対派を弾圧し攘夷派を激昂させた。そして1860年に桜田門外で雪の上に、花のようにその生涯を散らしたのである。

戦後のGHQによる占領政策のなかで「公職追放」や共産党に対する「レッドパージ」は、人間的にも社会的にも様々なドラマを呼び起こした。
公職追放は、政界・経済界・官界などから戦前の指導者が排除されたもので、NO1やNO2が不在の中で、NO3の地位にある立場だった中堅層がトップになって社会を引っ張っていくことになる。
そこで「三等重役」などの言葉がうまれたのであるが、これが社会全体の新陳代謝となり、日本社会の戦後のスタ−トにとって結果的にはプラスに働いたといってよい。 ところで「公職追放」の最大の政治ドラマは、日本民主党の党首・鳩山一郎氏の公職追放ではなかったかと思う。
鳩山氏は戦後保守のリ−ダ−の一翼を担っていたはいたが、戦争中には翼賛選挙に反対し大政翼賛会の非公認の立場に立っていた。その彼が「戦争協力者」として公職追放をうけたのは意外な感もあるい酷な印象もある。
鳩山一郎の公職追放には滝川事件などの言論弾圧事件で文部大臣の立場であったことなどがGHQによるリストアップの理由であるらしい。(ちなみに滝川事件は黒沢明の「わが青春に悔いなし」の題材となった。)
鳩山一郎は追放の際、政権は吉田茂に託すが、復帰の折には政権を返上してもらうという約束をしていた。
占領期間の中で自由党の吉田首相が、対米追従という批判をうけながらも大きな役割を果たして日本の独立にまでこぎつけた。その後に公職追放を解除された鳩山が復帰する。鳩山がその直後に脳溢血で倒れたり、吉田が政権を譲る譲らぬでひと悶着はあったものの、鳩山のこの段階での政界復帰はとても大きな意義があったと思う。
まずは吉田の対米一辺倒から、ソ連外交を重視する鳩山の外交スタンスにより日ソ国交が回復し、それまで五大国中、唯一反対を続けたソ連の賛成票により日本の国連加盟が実現したからである。
そして日ソ国交回復によりシベリアに抑留した人々に帰還の道が開かれたのである。
鳩山の公職追放や復帰の時期また、鳩山ではなく吉田のような対米一辺倒の外交姿勢の総理が政権を握っていたならば、あるいは病気で鳩山の復帰がなかったならば、など、色々の「if」を考える時、この時期における鳩山政権は、「歴史における」適材適所つまり「めぐり合わせ」を感じさせるものがある。

次にうかんでくるのが、旧吉田学校の優等生の一人といわれる池田勇人のことである。
最近なくなった宮沢首相はかつて池田首相の側近であり、しばしばその代弁者であった。
池田首相は、「所得倍増」を唱え日本を政治の時代から経済の時代に転換させ日本の高度経済成長の路線を敷いた人物といってよい。
池田内閣が成立した時に、日本の独立や安保改定など戦後処理に関する大きな案件はほぼすでに一応の解決をみていたことが経済重視政策に転換した要因でもある。もちろん高度経済成長は、公害や薬害などの「ひずみ」の部分もあり、そうした問題に対する対応は充分とはいえない。

また池田首相は、「世論」を重視した最初の首相といってもよく、それは「寛容と忍耐」「低姿勢」「所得倍増」といった具体的(数値を示している)かつ平易なスロ−ガンをかかげたという点にも現われている。もちろんその背景には安保改定をめぐる激しい保守・革新の激突が、国民世論を無視した政治がもはやできなくなったことを示していたからである。
ところで池田は一高をめざしていたが第二志望の熊本五高にまわされる。池田の次に首相となる佐藤栄作とは受験地・名古屋も同じで五高(熊本)にまわされたのも同じであり、特別に優秀な成績をおさめたわけでもなかった。
池田は、翌年にもう一度一高にチャレンジしようと五高を1学期で退学するが、翌年も結果は同じで佐藤の1年遅れとなる。
さらに池田は東大受験に失敗し京大法学部にすすみ卒業後大蔵省に入った。一高から東大が主流のなかで五高から京大は傍流であった。しかも入省後、病にかかり死の境をさまよい退職を余儀なくされ5年間病床にあった。
病気快癒後、全快挨拶に東京にでてきたおり三越に立ち寄りそこから大蔵省に挨拶の電話したところ復職させてやるから戻ってこいという返事であった。
その後、池田は税務畑を中心に出世し終戦の年には主税局長になり同期とほぼ並んでいる。
佐藤栄作は運輸省に入っており、二人とも出世コースから離れていたおかげで、終戦時に処分されることなく、自然と地位が上がっていた。そして経済が得意な池田が、政治の季節が終わった時に、経済の時代を築くべく内閣の首班となったのも歴史における「めぐりあわせ」を感じさせる。

財界には、池田と同じく大学をでて病になり出遅れた人物がいる。元経団連の副会長である花村二八郎は、東大をでてすぐに結核となり、知人の紹介によりしばらくの間、福岡市南区老司にあるの少年院で教官をしたことがある。花村は後に財界の自民党に対する献金の割り振りをつくり、それが「花村リスト」として世にしられる。
1954年 造船疑獄により海運関係のトップと保守系代議士があいついで逮捕された。 このとき検察側は、造船工業会などからわいろを受け取った疑いで佐藤栄作自由党幹事長の逮捕を急いだが、犬養健法相は指揮権を発動し、逮捕を阻止して辞職した。この時、捜査の対象になった政治家・官僚・会社員は千人をこえ、会社役員・運輸省役人の二人が自殺した。
この事件をきっかけとして経団連は財界の政治献金を一本化しようとするが、政治献金問題の中心的役割を果たしたのが花村仁八郎であった。
花村は企業・団体からだしてもらう政治資金は「自由経済体制を堅持する保険料」と位置づけ、「花村リスト」といわれる献金の割り当て表を作り、これが以後「財界献金の原典」となった。 企業の政治献金を取り仕切り「財界政治部長」の異名をとり、長年政界と財界の資金のパイプ役を務めた花村は1975年経団連の事務総長、1976年事務総長兼務で副会長に就任し、この間、日本航空の会長も務めた。
花村は、少年院で涙ながらに少年達の身の上話を聞いたことが、後の財界の世話人と呼ばれるようになる下地をつくった述懐している。花村仁八郎もまた歴史における「めぐりわせ」にあったといってよいだろう。